出自と真定での事跡
- 王守道、字は仲履、その先祖は真定平山の人。金が滅ぶと群盗が相次いで起こり、州県の官吏は乗じて貪暴不法をなす者が多く、民はしばしば県令・県丞や属吏を殺した。宣撫司は守道を県尉に任じ、民は喜んでこれに従い、そのため摂令へと転じ、さらに真定主簿に改められた。
- 史天倪が河北西路兵馬都元帥となって真定を鎮し、大名・沢潞・懐孟等の未帰属の城邑を収めると、守道は府経歴となった。金の恒山公武仙が降ると史天倪の副帥に任ぜられたが、守道は天倪に「この者は公の下位にあることを内心不平に思っているはず、いつまでも鬱屈させておいてよいはずがない、備えを先んじるべきだ」と告げたが、天倪はこれを聞き入れず、まもなく果たして害された。
- 武仙が城を挙げて叛くと、金の史氏の一族と属県周辺の豪傑らが天倪の弟史天沢を主帥に立て、武仙討伐に当たった。史天安は白霫にあって変事を聞き、軍を率いて駆けつけ真定を回復した。仙は西山の諸砦に逃げ込み保塁したが、守道の家人を捕らえて重金で誘惑しようとした。守道は顧みず、日々史氏の部曲や兄弟と共に徴発調度して仇を討ち、ついに仙を逐って遁走させた。
累進と晩年
- 後に慶源軍節度使に擢用され、天沢が五路万戸となると守道を行軍参謀兼検察使に任じた。荘聖太后が真定を湯沐邑とすると、守道は鎮にあって幕僚として毎年謁見し、応対が意にかない、金符・錦衣・金銭を賜った。中統三年、天沢が入朝して左丞相に拝すると、すぐに守道を真定等路万戸府参謀に任じ、至元七年卒した。至大元年、子の顒が貴顕になったため特に銀青栄禄大夫・大司徒を追贈され、寿国公に封じられ、諡は忠恵。仁宗即位後、さらに推忠恊力秉義功臣・金紫光禄大夫・大司徒・上柱国を加贈された。