出自と金への出仕
- 王檝、字は巨川、鳳翔虢県の人。父の霆は金の武節将軍・麟游主簿であった。檝は気性が磊落で、弱冠で進士に挙がったが及第せず、終南山に入って読書し孫子・呉子の兵法を学んだ。泰和年間再び落第すると、闕に詣でて当世の急務を論じた上書をなし、金主は給事経実元帥府に用いた。まもなく元帥髙琪の推薦により特に進士出身を賜り、副統軍に任じられ涿鹿の隘を守った。
- 太祖の軍が南下すると、檝は三日間激戦したが敗れて捕らわれ、処刑されようとしたが顔色一つ変えなかった。太祖は「汝は何を恃んで我が軍に抗い、死をも恐れぬのか」と問うと、檝は「臣は布衣の身で国恩を受け、身を捧げて国に報いようと誓いました。今すでに軍が敗れた以上、死ぬことができれば幸いです」と答えた。帝はその義に感じて釈放し、都統に任じて金符を佩ばせ、山西の潰兵の招集を命じた。
金末元初の帰順工作
- 大軍に従い紫荊関を破り、涿・易・保州・中山を取り、軍が雄州に至った際、節度使孫吴が堅守して落ちなかったが、檝が城に入り禍福を説くと呉はついに城を挙げて降った。甲戌年、宣撫使を授かり尚書六部の事を兼行し、僧格巴図太傅・明安に従って南征し、古北口を下し薊・雲・順等の州を攻めて通過するたびに帰順を得、漢軍数万を得て中都を包囲した。乙亥年、中都が降ると、檝は「国家は仁義をもって天下を取る、民の信を失ってはならない、掠奪を禁じて民の望みに応えるべきです」と進言した。
- 当時城中は食糧が尽き人が人を食う有様であったので、軍士に糧を給して城に入り転売させ、士は金帛を得て民は糧食を得た。また、田野が久しく荒れ、戦後で牛が不足していたため、官を派して盧溝橋で軍が奪った牛を没収し十のうち一を割いて農民に給するよう建議した。この案が用いられ数千頭を得て近県に分配し、民は大いに喜び、復業する者が多くなった。
- 僧格・明安は檝に保定・新城・信安・雄・霸・文安・清・滄の諸城を招諭させ、皆風になびいて帰順したので、滄州に行司を置いて鎮した。ついで明安に従って入朝し、銀青栄禄大夫を授かり、前職はそのままに御史大夫を兼ね世襲千戸となった。当時河間・清滄が再び叛いたため、帝は檝に討伐を命じ、また駙馬巴図に蒙古軍と乣・漢軍三千を分けて檝に属させ、河間を回復して軍民一万口を得た。巴図は反覆する民を憎んで殺し尽くそうとしたが、檝は「羊の群れを東西に追い立てるのは牧人であり、羊自身が何を知りましょうか。渠魁を殲滅すれば十分です。この者たちを釈放して近県に移せば、強き者は軍に従い弱き者は農にあたる、それは天が我らに与えた資です、なぜ殺す必要がありましょう」と諭した。巴図が「汝はこの者たちが再び反しないと保証できるか」と問うと、檝は「できます」と即座に保証の文書を発行し、全員が生き延びた。
北方統治と対宋外交
- 帝は実里巴と皇太弟国王に諸侯王の城邑分配を命じ、実里巴に「漢人の中で王宣撫のような者は任用してよい」と諭した。そこで前職に加え判三司副使を兼ねた。のちに省臣に帰付工匠の総数を統括させることになり、大臣に分掌させようとした際、太師阿哈は諸大臣の名を列挙して奏上したが、帝は「朕にはその人がいるが、たまたま姓名を忘れた」と言い、しばらくして「思い出した、旧人の王宣撫がこの職に任じられよう」と述べ、檝にこれを命じた。
- 当時都城の廟学は戦火に焼失していたため、檝は旧枢密院の地を取ってこれを再建し、春秋に諸生を率いて釈菜礼を行い、旧岐陽の石鼓を廡下に列した。丙戌年、西夏および秦州征討に従ったが、夏人はことごとく橋梁を撤去して備えたため軍は阻まれて前進できず、帝が諸将に問うても誰も策を知らなかった。檝は夜、士卒を督して木石を運ばせ、夜明けに橋が完成し軍は進むことができた。
- 戊子年、監国公の命を奉じて中都を統治した際、属域に盗賊が起こり、信安が北山の盗李密と結んで近県を転々と略奪した。檝は「都城は根本の地、どうして備えがなくてよかろうか」と言い、水を引いて城を環らし経費を調達し、自ら証文を発行して商人から借り、民には及ばぬようにしたため人心は次第に安定した。子の守謙を遣わして軍を率いさせ諸盗を討伐し、平定した。
- 庚寅年、関中征討に従い、長駆して京兆に入り、進んで鳳翔を攻略した際、太宗に「これは臣の故郷です、城に入って親族を訪ねさせてください」と願い出、果たして族人数十口を得て帰った。壬辰年、汴京攻めに従い、癸巳年、国書を持って宋に使者として赴くよう命じられ、鄂囉羅を副使として宋に至った。宋人は甚だ礼遇し、すぐに使者を派して金幣を貢納した。檝は前後五度使者として往来したが、和議が決しないことを憂えて病を得、南宋にて卒した。宋人はこれを厚く弔い、使者を遣わして柩を燕に送り届け、そこに葬られた。子六人。