西征の先導
- 郭寳玉、字は玉臣、華州鄭県の人、唐の中書令郭子儀の裔。天文兵法に通じ騎射に長じ、金末に汾陽郡公を封じられ明安として定州に屯していた。太師穆呼哩の軍に金軍を大敗させられた際、寳玉は軍を挙げて降った。
- 太祖に中原攻略の策を問われ「中原は勢大にて軽視できぬが、西南の諸蕃は勇悍にて用いやすく、まずこれを取るべき」と答え、建国初の新令(濫殺禁止・刑罰の軽重・軍戸の徴発基準・僧道の禁令等)を献策した。
- 西征では城の攻略法を「天上になければ必ず取れる」と豪語し、庫珠克・鄂爾多等の城を攻め流矢を受けながらも回復、火箭で敵船を焼く戦術で瑪勒四城を落とすなど各地を転戦。庫奇頁国のスルタンを大雪山まで追い、崑崙山・大鹽池を神に封じるなどの功を挙げ、断事官に累進し賀蘭山で没した。子は徳海・徳山。徳山は万戸として陝州・潼関攻略中に没。
徳海・侃――西征と中原統一の軍功
- 徳海、字は大洋。天文兵法に通じ、金末に穆昆として彭義斌を破ったが、父の帰順を知り太行山から出て降った。哲伯の西征に従い鉄山攻略で焚火の計略により三万を斬り、崢山・吐蕃の反乱鎮圧、南山八十三寨攻略、三峰山の戦いでは睿宗軍とともに金軍三十余万を潰滅させ、金将完顔哈達の隠れた仏塔を焼き払った。中牟・鄭で完顔色埓黙の軍を破り、河南の乱鎮圧の砲傷により病死。
- 太宗の詔で天下の僧尼道士を試験し学校を興す政策は徳海の建言によるものだった。子は侃。
- 侃、字は仲和。丞相史天沢に器重され養育を受けた。壬辰年金の布色軍を新衛州で破り、金主を追撃して汴の攻略に功、金元帥崔立の降伏を受けて千戸となった。西征では錫里庫に従い穆錫国・奇塔卜城など次々と攻略、克実密爾部の大国を屠り、宝物略奪を防ぐため浮橋を予め設けて敵の逃亡を阻止するなど機略に富んだ。
- 憲宗崩御の報を受け軍を還し鄧に屯田。世祖即位後、建国号・築都城・立省台・興学校等二十五事と平宋策(先に襄陽を取り、揚・廬を無視して臨安を直撃する策)を上疏。中統二年(1261年)擢用され、李璮の乱・宋との抗争で数々の戦功、至元年間には万戸として襄陽攻略に従軍、江南平定後に寧海州知事となり没。行軍に規律厳しく、興学・課農に努めた。子は秉仁・秉義。