元史卷一百四十九 列傳第三十六 劉伯林

金末の帰順から西京留守

  • 劉伯林は済南の人。任侠を好み騎射に長じ、金末に威寧防城千戸となった。壬申年、太祖が威寧を囲むと、伯林は勝ち目なしと見て城を挙げて降り、都提控の元職を安堵された。太傅耶律托輝と共に山後諸州の招討に従い、太祖の北還後は天成に屯して金兵を防いだ。
  • 西京攻略の功で金虎符を賜り西京留守兼兵馬副元帥に任じられた。癸酉年山東の梁門攻略、乙亥年穆呼哩の燕京攻略、以後各地の攻城戦に従軍。北地の混乱で困窮した民のため、聞喜の民の強制移住に反対して食い止め、俘虜も解放するなど民生に配慮した。「千人を活かせば子孫に興る者あり」と語った。
  • 辛巳年病没。享年七十二。太師を追贈され秦国公を封じられ、諡は忠順。子は黒馬。

黒馬――西征と全蜀の経略

  • 黒馬、名は嶷、字は孟方。生誕時に家の白馬が黒駒を産んだためこの小字を用いた。驍勇で志略あり、若くして父に従い数百戦を経験。単身金兵の囲みを破って十三人の部下を救出した逸話が伝わる。
  • 壬午年父の職を襲い万戸・都元帥に。癸未年から博囉・穆呼哩・アチェンらに従い西夏・東平・大名を攻略。乙酉年武仙の乱鎮圧、隘胡嶺で金の呼齊呼の四十万軍を大破。
  • 己丑年太宗即位により三万戸が立てられ、黒馬は史天沢に次ぐ地位で金虎符を授かり、回回・河西諸国征討、鳳翔・西河・沔州の攻略に従軍。庚寅年睿宗の金討伐に先鋒として従い、三峰山で金の哈達軍を大破。七万戸増設でも重喜・史天沢・厳実に次ぐ地位を得た。
  • 癸巳年南京攻略、甲午年蔡州攻略で金滅亡に貢献。乙未年都元帥塔海甘布の西川征討に従軍。辛丑年都総管万戸として西京・河東・陝西諸軍を統べ、成都経略を建言して実現。癸丑年から商州で宋の侵攻を防ぎ、丁巳年成都建立を建言し実現、伊克托里の号を賜った。
  • 中統元年(1260年)廉希憲・商挺の四川宣撫に協力し、密喇卜和卓を密かに誅殺した件で子が訴えたが世祖は「これは朕の命令」として不問とした。至元三年(1266年)成都路軍民経略使を兼ね、瀘州が包囲された際、病身ながら親ら輸送を督し「国事が急なら死んでも悔いはない」と語って没した。享年六十三。太傅を追贈され秦国公を封じられ、諡は忠恵。子十二人、うち元振・元礼・顕。

元振――劉整の受降と瀘州死守

  • 元振は字を仲挙、黒馬の長子。父に従い成都に入り、二十歳で万戸を代行、号令厳明で古参の将も敬服した。憲宗の宋討伐に先鋒として従軍。中統元年(1260年)廉希憲・商挺の推挙で成都経略使・総管万戸となる。
  • 宋の瀘州守将劉整が密かに降伏を申し出た際、諸将は疑ったが元振は「宋の権臣が功臣を陥れるため将士の離心を招いている、整の投降は不審ではない」と述べ、単騎で受け入れに赴き信頼を得た。
  • 宋の兪興が瀘州を包囲し正月から五月まで攻め続けた際、元振は食糧が尽きると乗馬を殺して兵を犒い、援軍を求める密書を蝋書に封じて送り、権宜で金銀牌を偽造して士気を鼓舞、援軍到達後に整と共に興軍を大敗させた。擅造の罪を自ら陳謝したが、帝は権変を評価し重く賞した。
  • 父の喪に服した後、成都軍民経略使に再任。至元七年(1270年)勲旧の家の権限を抑制する議により成都副万戸に降格。至元十一年(1274年)潼川路副招討使を兼ね、至元十二年(1275年)没。享年五十一。子緯が襲職し潼川を守り四川西道宣慰使等を歴任。

元礼――潼川の防衛

  • 元礼、黒馬の五男。渾厚で謀あり、常に父の軍中にあった。甲寅年京兆路鄂囉万戸、中統四年(1263年)興元成都等路兵馬左副元帥、至元元年(1264年)潼川路漢軍都元帥。
  • 至元二年(1265年)九月宋の制置夏貴が五万の軍で潼川を犯した際、寡兵で応戦し蓬溪で寅から未まで激戦、「潼川が破れれば国家の一部を失う」と将士を励まし自ら突撃して大敗させ、首級万余を斬り千余人を捕らえた。眉州城の再建を建言して実現し、五年間眉州を鎮守。至元九年(1272年)延安路総管として没。