遼東での自立
- 耶律瑠格は契丹人。金に仕えて北辺千戸となった。太祖が朔方で挙兵すると、金人は遼の遺民に他志ありと疑い、遼民一戸ごとに女真戸二戸を配して監視した。瑠格は不安を感じ、壬申年、隆安の韓州に逃れて壮士を集めて略奪を行い、州の追討軍を撃退。伊徳と勢力を合わせ数か月で兵は十余万に達し、瑠格を都元帥に推戴、伊徳が副となり、営帳は百里に及び遼東を震撼させた。
- 太祖は阿禅諾延呼塔噶に軍を率いて遼へ行かせ、瑠格と出会う。瑠格は帰順を誓い、金山で白馬白牛を刑し矢を折って盟った。金は和碩に六十万(号百万)の軍を送って瑠格を攻めたが、太祖の命でアジ阿禅らが千騎を率いて援軍し、徳済諾爾で金軍を大破した。
- 癸酉年三月、瑠格は衆に推されて王となり、妻約囉氏を妃とし、国号を「遼」とした。甲戌年、金は誘降を試みたが応じず、宣撫万努の四十余万の軍を帰仁県で撃破。金の左副元帥伊勒都の十万軍も破り、遼東を制圧、咸平を都として中京と号した。
- その後、家臣らが瑠格に帝号を称するよう勧めたが、瑠格は「大蒙古国に帰順すると誓った身が自ら帝を称するのは天に逆らうこと」として拒み、子実沙を遣わして金幣・金銀牌を献上し帰順を篤くした。太祖は瑠格を厚遇し、遼王の旧号を許し虎符を賜った。
- 部下伊実布らの離反により混乱が続き、伊実布・金山・通古・哈沙らが次々と僭号しては殺され、乙亥年から己卯年まで数年にわたり遼東は錯乱を極めたが、瑠格はその都度これを鎮定した。庚辰年、瑠格は没した。享年五十六。妻約囉氏が七年間その衆を権領した。
- 帝が西域から帰還した際、約囉氏は次子善格を後継に立てることを願い出たが、長子実沙の勲功を評価した帝は実沙の襲爵を認めつつ善格らを朝に留めた。約囉氏は「実沙は前妻の嫡子、善格は婢子の子、私情で嫡を廃してはならない」と述べ、帝はその賢を称賛した。
- 実沙は太宗に従い南征、東征を重ね戊戌年に没(享年四十六)。子夀果努が襲爵、名を実喇と改め高麗征討に功があった。辛亥年睿宗の下で三代仕えた功により虎符を更新された。己未年没(享年四十五)。長子古納が嗣ぎ、中統・至元年間に河西・李璮討伐に従軍したが至元六年(1269年)東京への統合で職を去り、同年没(享年三十六)。