金末の割拠から穆呼哩帰順
- 厳実は字を武叔、泰安長清の人。学問はやや知る程度で、志気豪放、生業を治めず、里社間で交わりを結んで施しを好んだ。何度か事件に連座して繋獄されたが、侠少らが助命に奔走して脱獄した。
- 癸酉年秋、太祖が紫荊口から兵を入れて山東・河北・河東を略した後、金の東平行台が民を徴兵する中、実は衆に信服され百戸に任じられた。
- 甲戌年、泰安の張汝楫が霊巌に拠って長清を攻めさせたが、実はこれを破り功により長清尉となった。戊寅年、権長清令となる。
- 讒言により行台に済南治中の実が宋と通じていると疑われ、行台軍に包囲されたため、実は家族を挙げて青崖に避難し、宋によって済南治中に任じられ、太行の東は皆その節制下に入った。
- 庚辰年三月、金の河南軍が彰徳を攻めた際、太師穆呼哩に軍門で謁見し、彰徳・大名・磁・洺・恩・博・滑・濬等州の戸三十万を率いて帰順。穆呼哩は制を承けて実を金紫光禄大夫・行尚書省事に任じ、曹・濮・単三州を平定させた。
- 部将李信が青崖に叛き、実は兵を挙げて奪還し李信を誅殺。東平を攻略して入居した。宋将彭義斌が京東諸州を取ろうと東平を包囲した際、実は次将布爾罕と合流して対抗、義斌は実を「兄」として和睦を図ったが、実は勢いを見て布爾罕軍と合流、義斌軍を潰滅させて捕らえ、京東諸州を回復した。
- その後、穆呼哩の弟岱遜が彰徳を、続いて濮・東平を取り、穆呼哩の子博囉が益都を取る際にも実は功を挙げた。庚寅年四月太宗に牛心の幄殿で謁見し、賜宴・虎符を授けられ「厳実は真に福人なり」と称された。甲午年和琳(カラコルム)に朝し東平路行軍万戸を授けられた。当初五十余城を統べていたが、この時には徳・兗・済・単のみが東平に隷属した。
- 丁酉年九月、征伐を控える詔を受けた。彰徳陥落後の反覆した住民を岱遜が虐殺しようとした際、実は「これは元々国家の旧兵、脅されて従っただけで罪はない」と説いて止めさせた。濮州でも同様に住民を救い、以後曹・楚丘・定陶・上党でも同じ処置を取った。河南の破壊が予想された際は金帛を持って人命を贖い、靈壁では誅殺予定の五万人を全て救った。飢饉の際には粥を施して多くの命を救い、部下の逃亡者や敵対者の妻子も寛大に扱った。
- 庚子年没。享年五十九。中統二年(1261年)魯国公を追封され、諡は武恵。子は忠貞(金紫光禄大夫)・忠済・忠嗣・忠範・忠傑・忠裕・忠祐。
忠済――東平の統治
- 忠済は一名忠翰、字は紫芝、実の次子。容姿雄偉で騎射に長じた。辛丑年、父に従って太宗に謁見し虎符を佩び、東平路行軍万戸・管民長官を襲爵、父の養老尊賢の法に倣って政治を行い、諸道中第一の治績を挙げた。
- 淮漢の地を経略し、諸将子弟が千戸として仕えた。乙卯年、新軍の徴募で山東の兵二万余が増員され、忠済がこれを統括。己未年、世祖の南伐に従い、鄂州を攻める際に勇士を率いて登城戦功を挙げたが、威名の盛んなことを危惧する声が上がり、中統二年(1261年)京師に召還された。
- 東平統治中、民の未納年貢を借財で代納していたが、返済を求められた際、帝は内蔵から代償させた。東平の廟学が狭かったのを城東の高爽な地に改築し、後に名臣となる幕僚(宋子貞・劉肅・李昶・徐世隆)を輩出した。
- 至元二十三年(1286年)資徳大夫・中書左丞行江浙省事に特授されたが老齢を理由に辞退。至元二十九年(1292年)鈔一万五千緡・宅一区を賜り、子瑜を入侍させた。至元三十年(1293年)没。東平を治めること十一年、大権を握りながら謝去の後は貧に安んじたことが称えられた。諡は荘孝。
忠嗣
- 忠嗣は実の三男。張澄・商挺・李楨に学び経史の大義を知った。辛亥年、兄忠済から東平人匠総管を授かり、単州防禦使を遥領。乙卯年東平路管軍万戸、丁巳年忠済に従い揚州を略し邵伯埭を取って戦功を立てた。己未年南征では淮を渡り桂車嶺で宋軍と三昼夜戦い、蘄州から鄂州まで九十余日の攻城戦に力戦し、金虎符を授けられた。
- 中統三年(1262年)李璮の乱で徐州の李誥格が宋に降り、忠嗣は大帥安図に従い蘄県を救い徐州を回復、李誥格を誅殺。鄒の嶧山・滕の牙山も攻略した。中統四年(1263年)朝廷は青斉の乱を教訓に大藩の子弟が兵権を握ることを禁じ、忠嗣は官を罷めて帰郷。至元十年(1273年)没。