出自と金末の挙兵
- 董俊、字は用章、真定稾城の人。若くして農耕に努め、長じて書史を読み、騎射を得意とした。金の貞祐年間、辺境の軍事が急を告げると、稾城の県令が募兵し、弓の上手を将に抜擢する試験を行ったが、誰も的を射抜けぬ中、俊だけが命中させ、将として抜擢された。
- 太祖の軍が南下すると俊は降った。己卯(1219年)、功により知中山府事に進み金虎符を帯びた。金の将武仙が真定に拠って諸城を従えたが、俊は夜襲で真定を奪い、武仙を敗走させた。
- 庚辰(1220年)、金は大軍を発して武仙を援け、中山で反乱が起きたが、俊は曲陽に屯していた軍で武仙を黄山下に破った。武仙は太師国王穆呼哩(ムカリ)に降った。穆呼哩は俊を龍虎衛上将軍・行元帥府事に任じ、稾城に駐屯させ、稾城県を永安州に昇格させて俊の軍を「匡国軍」と号した。
- 己丑年、武仙は再び叛き、都元帥史天倪を殺して真定に拠った。俊は千人に満たぬ孤軍で永安を守り抜き、飢餓策で攻める武仙を「民の食を奪う道無き賊のすることではない」と一喝して退け、後に真定を奪還した。武仙は逃走して死に、史天倪の弟天沢が後を継いだ。
- 壬辰年、諸軍が汴京を囲んだ翌年、金主が汴を捨てて帰徳に逃れると、俊はこれを追撃する軍中で金兵の夜襲を受け、水辺での激戦の末に戦死した。享年四十八。
人となり
- 俊は早くに父を失い、母に孝を尽くし、廟祭を欠かさず、子が幼くても礼にかなった作法で拝礼させた。族親・故人にも情厚く応対した。
- 汴京攻略の際、侍其軸を賢者として招き、子弟の教育を託した。常に「弓馬は百日の技にすぎぬが、詩書は積み重ねねば通じない」と語り、子らに農耕と読書に励むよう戒めた。
- 忠実で危険を恐れず、陣頭に立っても平然としていた。馬援の「馬革裹屍」の志を慕い、常に矛を手にして先頭に立った。
- 戊子年、朝見の際、諸将が戸口数を偽って多く報告する中、俊だけは実数を申告し、「民を欺いて後日重税を課すことになれば、自分だけが利を得て民が苦しむ」と述べた。
- 行元帥府在任時、反乱の嫌疑で数万人が連座を問われた際、俊は首謀者のみの処罰を主張し、多くを救った。永安節度使劉成が武仙に降った際も、俊は「逆らったのは一人のみ、他は罪を問わぬ」と布告し、多くの兵を復帰させた。
- 沃州で天台砦に拠った盗賊を降した際、他将が住民の子女を奪おうとしたが、俊は「降伏した城の住民を虜にするのは仁者のすることではない」と止めさせた。南征では捕虜となった人々の家族を全うさせて解放し、他境で売られた者も贖い戻した。
- 死後、翊運効節功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を贈られ、寿国公を封じられ、諡は忠烈。のち推忠翊運効節功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を加贈され、趙国公に改封された。子は文炳・文蔚・文用・文直・文忠。文炳には別に伝がある。
文蔚――築城と川蜀での戦
- 文蔚は字を彦華といい、俊の次子。物静かで思慮深く、遊興を好まず、読書に励んで倦むことなく、長じて騎射に長じ膂力人に絶えた。母に孝、人には謙譲、礼を尽くした。
- 兄の文炳が稾城の令となると、家務を任され、祭祀・賓客の接待に尽力した。辛丑年、南征の民兵が起こると、文炳の命で十七人を率いて私費で軍馬・武具を整え、淮水を渡った。
- 甲寅年、世祖が大理から帰還し六盤山に駐屯した際、文炳は文蔚の孝謹さを見て自らの金符を譲るよう帝に進言し、帝はこれを許して文蔚に稾城等処行軍千戸を授けた。
- 鄧州を鎮守し、荊襄と境を接する辺境の未築城壁を、乙卯年に光化を修め、翌丙辰年に棗陽を築いた。文蔚は総指揮を執り、資材の調達から工の采配、疾病の手当てまで自ら行い、士卒に慈しみをもって接したため、皆が力を尽くした。
- 丁巳年の襄樊攻めでは、湖水の狭隘部に木を伐って橋を架け、一夜で渡河を成し遂げ、城を囲んだ。この功で最高の評価を得た。
- 己未年、憲宗の四川親征に従い、褒斜道から剣閣を経て諸州を平定、釣魚山では険しい崖を攻めて雲梯で登り、寨を落とす戦功を挙げた。
- 中統二年(1261年)、世祖が武衛軍を置くと文蔚は鄧の兵をもって千戸となり上都に留屯。中統三年(1262年)李璮の乱で済南を囲む軍に加わり戦功を挙げた。
- 至元五年(1268年)七月十七日、上都の炭山で病没。弟の文忠は当時枢密僉院として喪を護って南還を願い出た。泰定年間、明威将軍・僉右衛使司事・上騎都尉・隴西郡伯を追贈された。
文用――潜邸出仕から西夏経略
- 文用は字を彦材、俊の三男。十歳で父を失い、長兄文炳の教導を受けて学問を早く成し、弱冠で詞賦の試験に通った。
- 庚戌年、太后の命により真定稾城の子弟から人材を選ぶ際に文用も従い、和琳城で太后に謁見。世祖が潜邸にあった頃、文書の管理と講説を任され重んじられた。
- 癸丑年憲宗が河西より雲南大理へ出征した際、文用は弟文忠とともに従軍し糧械を督し軍務を助けた。丁巳年世祖は皇子(北平王・雲南王)に経書を授けるよう命じ、竇黙・姚枢・李俊民・李冶・魏璠ら在野の賢者を各地から召した。
- 己未年宋討伐に際し、文用は蒙漢諸軍を率いて鄂州攻めに従軍。宋の賈似道・呂文徳が水陸両軍で拒んだが、九月世祖臨江して閲戦、文炳は先陣を求め、文用と文忠も同行を固く請い、世祖自ら大艦を選び授けて宋軍を大破した。
- 世祖即位(中統改元)後、文用は詔をもって辺郡を宣諭し、諸軍から侍衛を選抜した。中書左丞張文謙が大名等路を宣撫した際、文用を左右司郎中に推挙。中統二年(1261年)八月には兵部郎中として都元帥府事に参議。中統三年(1262年)李璮が済南で叛くと、庫庫岱の下で討伐に従軍。
- 阿珠(アジュ)の宋討伐に召されたが、文用は「新制では諸侯の総兵者の子弟は再び兵事に就かぬ」と述べて辞退した。至元改元後、西夏中興等路行省郎中に任じられた。中興は前の乱で民が山谷に逃げ隠れていたが、文用は静を以て鎮め、通衢に布告して民を安んじ、唐来・漢延・秦家等の水路を開いて灌漑を興し、戸数四、五万に及ぶ帰還民に田を授けた。
- 諸王哲伯特穆爾(ジェベテムル)が西方を鎮める際、その部下が横暴を働いたが、文用は法をもってこれを面折した。讒言を受けて王に問い詰められた際、文用は「私は天子の命を受けた官吏、あなたの下の者に問われる筋合いはない」と述べ、王が遣わした中朝出身の傅(教育官)を説いて王自らの過ちを悟らせ、以後は讒言が通らなくなった。
- 至元九年(1272年)に立司農司が置かれると山東東西道巡行勧農使となり、山東の荒廃地の開墾を勧めて実績を挙げ、五年間で天下の勧農使中最高の政績を上げた。至元十二年(1275年)丞相安図の推挙で工部侍郎となり、赫舍哩阿哈瑪特の讒言による危機を退け、後に衛輝路総管に転じ、江南から運ぶ財貨の輸送負担を軽減する策を講じ、汴の漕運事業にも参画して衛州を水害から守った。
- 至元十六年(1279年)致仕して帰田し、裕宗に評価されて再び召し出され、至元十八年(1282年)山北遼東道提刑按察使を辞退、至元十九年(1283年)兵部尚書となり朝廷の大議に参与した。
- 至元二十年(1283年)江淮省の官が按察司を行省に隷属させようとした議を、文用は「按察司は臥虎のようなもの、抑圧すれば風紀が崩れる」と反対して覆した。
- 中書右丞盧世栄が財政政策で私利を図ろうとした際、文用は羊の毛を刈り取る喩えで民力の限界を説き、世栄を論破。丞相安図は「董尚書は禄を無駄に食む人ではない」と評した。世栄は後に罪を得た。
- 至元二十二年(1285年)江浙行中書省参知政事を固辞したが、帝は「卿の家柄は他とは違う」と論して赴任させた。行省の長官が驕慢な中、文用は堂上で是非を論じて憚らなかった。仏塔建立で民を苦しめる工事を緩めさせるなど、民のために発言を続けた。
- 至元二十三年(1286年)海東出兵の重税による奸利を訴え、事業を中止させた。至元二十五年(1288年)御史中丞となり、胡祗遹・王惲・雷膺・荊幼紀・許揖・孔従道ら十余人を按察使に推挙。当時権臣僧格(サンガ)が国政を専断していたが、文用は独りこれに与しなかった。僧格が自分を頌えさせようとしても答えず、民の困窮を訴えて僧格の非を指摘し続けた。僧格は文用を誣告したが、帝は「董文用は端謹な人物」として取り合わなかった。
- 大司農に遷った際、屯田のため民田を奪う議に固執して反対し、翰林学士承旨に転じた。至元二十七年(1290年)隆福太后の命で皇孫に経書を授け、朝廷の故事を交えて教導した。至元三十一年(1294年)帝が諸子を召見させようとした際、辞退した。
- 世祖崩御・成宗即位の年、上都巡狩の帝に対し「先帝が崩じたばかり、久しく都を離れれば民心が安まらぬ」と諫めて京への還御を促し、帝はこれに従った。文用は先朝の故事を語り、成宗はしばしば夜半まで耳を傾けた。裕宗の時代から蒙古大臣と同席して酒を賜るなど格別の待遇を受けていた。
- 実録編纂の際、資徳大夫・知制誥兼修国史に昇進し、祖宗の世系・功徳・勲臣の家系に精通していたため史館の考究に貢献した。大徳元年(1297年)老齢を理由に致仕を願い出て、中統鈔一万貫を賜り帰郷。同年六月戊申、病により没した。享年七十四。子は八人(士貞・士亨・士楷・士英・士昌・士恒・士廉・士方)。銀青光禄大夫・少保・寿国公を贈られ、諡は忠穆。
文直
- 文直は字を彦正、俊の四男。剛毅で謹厳、寡黙だが経史・法律に通じ、藁城の長官となり金符を帯びた。兄文炳・末弟文忠が世祖に仕え、次兄文用も朝廷にあって、家に頼る者が百人を超えたが、文直は勤倹を貫き通し、内は生死の礼を尽くし、外は親戚交際に節度を守った。
- 施しを好み、貧者を密かに救っても恩着せがましくせず、僮僕が病めば自ら粥や薬を与えた。官を辞した後は里社で心のままに過ごし、家門の栄華に対して恬淡としていた。享年五十二で病没。
文忠――太宗~世祖朝の諫言
- 文忠は字を彦誠、俊の八男。壬子年、世祖の潜邸に仕えた。王鶚が詩才を問うたところ「入りては親に孝、出でては君に忠を尽くすことのみを知り、詩は学んでいない」と答えた。
- 癸丑年南詔征討、己未年宋討伐に従い、兄文炳・文用とともに陽羅堡で宋軍を破り、蒙衝を得て鄂州を囲んだ。世祖即位後、符宝局が置かれると郎となり奉訓大夫を授かった。帝は親しく「董八」と呼び、文忠は媚びることなく事あるごとに意見を献じた。
- 至元二年(1265年)安図が右丞相として中書を領し十事を建言した際、帝の意に逆らって取り上げられなかったが、文忠が傍らから丁寧に補足説明し、允可を得させた。
- 至元八年(1271年)侍講学士図克坦公履が科挙実施を上奏した際、儒学と禅の対立に及ぶ議論が起き、帝が文忠に「お前は毎日四書を誦えているが道学者か」と問うたところ、文忠は「陛下は常々士は経を治め孔孟の道を講ずべきで詩賦は無益と仰る、それゆえ実学に励むようになった、自分が誦えるのは孔孟の言葉であり、俗儒が旧習を守るために道学と称して事を惑わすのは陛下の意図ではない」と述べ、議論を収めた。
- 至元十一年(1274年)宋討伐の際、民の供給負担が過重であるとして常年の横徴を免除するよう奏し、聞き入れられた。宋の降将に亡国の理由を問うた帝に対し、賈似道が武人を軽んじたためとの答えが返ると、文忠は「賈似道が薄遇したのは事実だが、君(世祖)はむしろ厚遇している、それでも一戦もせず国を見捨てるのは臣節に悖る」と喝破し、帝はこれを深く評価した。
- 大都の猟戸を郢中に移す命、器物税の徴収など民に負担となる政策を止めさせ、犯罪者を無差別に殺す苛烈な法令を緩和させた。漢人が国人を殴傷した事件で、帝が激怒して即座の処刑を命じた際、文忠は慎重な審理を求めて誣告を明らかにし、無辜の人命を救った。裕宗も「天子の怒りの最中に諫止できるのは董文忠だけ」と評した。
- 安図の北伐後、阿哈瑪特(アフマド)が権柄を握り、廉希憲を陥れて江陵に左遷させようとしたが、文忠は希憲の召還を進言して実現させた。
- 至元十六年(1279年)太子(燕王)が久しく政務に携わらないことについて、朝廷の処遇の在り方を論じ、有司が先に奏を進め太子は事後承認する体制を提言、帝はこれを採用した。太子には「董八は国本を立てた者、忘れてはならない」と語らせた。
- 礼部尚書謝昌元の門下省封駁制の建議を推進する任にあたり文忠が侍中に擬せられたが、讒言を受け、帝は「彼が盗みも欺きもしないことは自分がよく知っている」と擁護した。讒言者が万緡の賄賂で懐柔を図ったが、文忠は拒絶した。
文忠――典瑞・僉樞密院と最期
- 兄文炳が中書左丞のまま没すると、太傅巴延(バヤン)が文忠を後任に推挙したが、文忠は「兄の功に及ばぬ」と辞退した。
- 至元十八年(1281年)典瑞局を監から卿に昇格させる際、文忠がこれに任じられ正議大夫を授かり、続いて資徳大夫・僉書枢密院事・卿を兼ねた。帝の行幸に際しては大都に留まり、宮苑・城門・警備・禁兵・諸監を統轄した。
- 至元二十五年(1288年)冬十月二十五日、早朝に急病で倒れ、帝の遣わした薬も間に合わず没した。帝は深く悼み、賻銭数十万を賜った。後に光禄大夫・司徒を贈られ、寿国公を封じられ、諡は忠貞。