監察御史としての諫言
- 伊嚕特穆爾、布朗吉爾都爾伯特氏。曽祖古裕は太祖に、祖ハラは世祖に仕えた。父布哷齊は中書右司員外郎として武宗擁立に功あり。伊嚕特穆爾は幼くして聡明で成宗の命で国学に入り、仁宗に容貌を認められ「四集賽扎薩克和碩」の令により常侍を許された。
- 監察御史として太師右丞相特們德爾の受賄六万貫を弾劾し貸死の裁定を受けた案件を告発、帝の怒りを買った特們德爾の印を砕かせた。兵部郎中、殿中侍御史、給事中を歴任。
- 仁宗が太上皇の称号を望む議論の際、独り「唐玄宗・宋徽宗の先例は禍乱に至った」として正大位を保つべきと諫めた。仁宗崩御後、特們德爾が復相すると誣告により山東塩運司副使に降格されたが、期月で塩課を万計まで回復させた。
弾圧と復権
- 巴延の起兵に強要された際、御史時代に明埓棟阿の不正封爵を弾劾した経緯から恨みを買い、乾寧安撫司に流された。至順三年(1332年)雷州に移され、至元六年(1340年)順帝の召還で帰京、至正四年(1344年)同知将作院事、大宗正府伊克扎爾古齊、太医院使を経て翰林学士承旨知経筵事となり、経史を引いて王道を説いた。
- 至正十二年(1352年)江南諸郡の盗賊鎮圧のため平章政事行省江浙に任じられ「守禦江南の計は緩慢では成らない」と丞相托克托に進言。建徳を回復し何福を捕縛して処刑、淳安等の県を回復させた。同年七月、徽州に進軍中に病没した。