風紀の粛正
- 達爾瑪、高昌人。大父薩奇蘇は遼王伝の世祖に賢と称された。李璮討伐の功で山東行省大都督を授けられた家系で、達爾瑪は弱冠で宿衛に入り、大徳十一年(1307年)御薬院達嚕噶齊、回回薬物院を経て湖北山南両道廉訪司事を僉した。
- 監察御史として丞相特們德爾の専権を同僚の琳沁・馬祖常と共に弾劾。高昌僧の違法な婚姻を糾した。河東道廉訪副使として、殺人犯逃亡後に無実で拘束され続けていた者たちを釈放し、燕南道廉訪副使では冤罪を晴らして被害地方官の職を回復させた。
- 行唐県の窃盗誣告事件、深州の老女の過失致死事件などで実情に即した判断を下し、七十歳の刑免除の原則を厳格に適用すべきかを巡っても慎重に審理した。済寧路総管として学校興隆・農業奨励に努め、牧童の誤殺事件も情状を酌んで軽罰とした。
地方官としての清廉
- 泰定元年(1324年)福建廉訪使として宦官の横取や宣政院判官の収賄を弾劾。浙西廉訪使では文宗発の使者の讒言に遭い一時重罪を問われかけたが帝の怒りが解け上都同知留守に転じた。
- 天暦元年(1328年)明宗崩御・文宗即位の混乱期に朝暮尽力し、天暦三年(1330年)淮東廉訪使、明年刑部尚書として新君即位に伴う諸王への下賜を厳格に管理し国費を節約した。
- 元統元年(1333年)遼陽行省参知政事として高麗使者の不正な文書封印を見破り、山東廉訪使として盗賊蜂起の原因を官吏の貪汚と見て先に懲戒し討伐策を立てた。大都路留守として質素な工事を旨とし帝に称賛された。至正六年(1346年)河南行省右丞、翰林学士承旨、七年陝西行臺中丞を経て致仕、召されて中書平章政事の商議を務め全俸を賜り終生優養された。