池州・安慶の攻防
- 巴延特穆爾、字は珍卿、唐古鄂摩克氏。武宗・仁宗・英宗に仕え、天暦初年に太常署丞から監察御史・殿中侍御史・大都路達嚕噶齊・都転運塩使・粛政廉訪使を歴任し、行中書省参知政事から江浙行省平章政事となった。
- 至正十二年(1352年)蘄黄の徐夀輝軍の湖廣・江東西侵攻に際し、募兵三千・戦艦三百を編成し丁家洲で賊を大破、銅陵県・池州を回復。無為州討伐、江州陥落と桑節の戦死、安慶包囲の緊迫に対し、諸将が守備固執を主張する中「安慶と池は水一つ隔てるのみ、救援こそ節義」と大量の帑蔵を投じて潰軍を再結集させ包囲を解いた。
- 十三年(1353年)池州再攻撃に対し「賊の疲弊に乗じ迅速に攻めるべし」と主張し大破、諸県を回復。以後、望江・小孤山・彭澤・龍開河で連戦連勝し江州を留守、蘄州を攻略して偽帥鄒普泰を捕らえた。道士洑・黄連砦を克し両巴河を平定し江路を通じさせた。
蘄水縣攻略と病没
- 十一月、諸軍と合流し十二月蘄水県を分道攻略、偽都・偽将相以下四百余人を捕らえ徐夀輝を辛くも取り逃がした。この功で上尊・黄金帯を賜った。丞相托克托の南征に伴い各将が分担する中、巴延特穆爾は独り長江の要衝を控え続けた。
- 十六年(1356年)六月再び池州を守り、十一月に卒した。廉潔で私利を求めず、部下の礼遺を受けず、軍が通過しても民が兵の存在に気づかぬほどであったという。至孝で、幼くして叔父阿珠に養われ実父のように仕えた。常に花馬に乗り「花馬児平章」と称された。