元史卷百四十三 列傳第三十 台哈布哈

文才による立身と地方統治

  • 台哈布哈、字は兼善、巴約特氏。初名は塔斯布哈で、文宗より現在の名を賜った。父塔布台は宿衛から台州録事判官。家は貧しかったが好学で、集賢待制周仁榮に養われ教育を受けた。年十七で江浙郷試第一、翌年殿試で進士及第、集賢修撰から秘書監著作郎を経て江南行臺監察御史となり、御史大夫托歓の権勢を弾劾罷免した。
  • 文宗の奎章閣学士院で典籤、中台監察御史。順帝即位に際し文宗后の太皇太后号への昇進や大臣の王封に反対する上奏を主導し、太后の怒りを買ったが後に「風憲の臣がここまでできるとは」と評価され金幣を賜った。

方国珍への対応と殉節

  • 紹興路総管として吏弊を除き民の負担を軽減、遼宋金三史の編纂に参加し秘書卿・礼部尚書を歴任。黄河の氾濫に際し撩清夫の制度を提案した。
  • 至正八年(1348年)台州の方国珍が反乱を起こすと、その招捕策を上申したが用いられず、江東廉訪使などを経て浙東道宣慰使都元帥として温州で方国珍軍と対峙。博囉特穆爾との合流作戦が失敗し敗北すると台哈布哈は痛憤したが、朝廷は事態を知らず招降策を続けた。
  • 台哈布哈は密かに方国珍兄弟の暗殺を計画したが達実特穆爾に制止された。方国珍は再三の反覆を重ね、至正十二年(1352年)三月、台哈布哈が澄江で防戦中、方国珍の詐りにより奇襲を受け、単身奮戦の末に殺された。享年四十九。従者や義士も多く殉死した。
  • のち榮禄大夫・江浙行省平章政事・柱国・魏国公を追贈され諡は忠介、台州に廟が立てられた。気節を重んじ俗に流されぬ人柄で知られ、篆隷にも優れた。