出自と地方統治
- 慶通、字は明徳、喀喇氏。祖莽賚特穆爾、父烏魯斯はともに益国公に封ぜられた。勲臣の子孫として仁廟に仕え、大宗正府掌判・上都留守・江西河南二行省平章政事・太府卿を歴任し、遼陽行省平章政事として寛厚な政治を行い遼人に徳とされた。
- 至正十年(1350年)江浙行省平章に転じたが安逸に流れ人材登用を怠り物議を醸した。翌年盗賊が汝潁から江浙に及び饒・信・徽・宣・鈆山・広徳・常・湖・建徳が陥落すると、僚佐を派して次々克復させ、民の誤って連座した者を不問とし流民を招き寄せ、破壊された官府を再建して貧民を工役で救った。
- 十四年(1354年)托克托の南征に際し軍資を調達し、翌年常州・無錫の盗賊を諭して投降させ、十六年(1356年)苗軍の首領芳嘉努を丞相達実特穆爾と共に誅殺し、苗将楊諤勒哲との娘の縁組も強いられて応じた。
末路
- 江浙で七年にわたり功績を挙げ、翰林学士承旨・淮南行省平章政事などに任じられ、十八年(1358年)江南行臺御史大夫となったが、当時南行台の管轄地域は方国珍・張士誠に阻まれ機能不全であった。
- 二十年(1360年)京師に召還され中書平章政事となったが、子噶勒桑が宮人と密通したと讒言され帝に殺され、以後鬱々として自堕落な生活を送った。
- 二十五年(1365年)陜西行省左丞相となり李思齊を礼をもって遇し関陝を安定させた。二十八年(1368年)七月大明軍が京城に迫り、帝以下北へ逃れる中、淮王特穆爾布哈の監国を輔佐したが、八月二日京城陥落の際、淮王とともに斉化門を出て殺された。