軍功による立身
- 伊蘇、蒙古人。宿衛より尚乗寺提点を経て宣政院参議となり、至正十四年(1354年)河南の賊芝麻李の徐州占拠を太師托克托に従い討伐、巨石を用いた砲攻で城を落とした功で同知中政院事に除せられた。
- 淮西の賊を討伐し、安豐包囲を解くべく馬で淮河を渡って賊を撤退させ、濠州を攻めた。淮東での戦功で淮南行樞密院副使、さらに海州の賊を大破し山東の失地を回復するなど各地で連戦連勝、知樞密院事に至った。
- 賊将杜黒児を捕縛し、単家橋・長蘆で防衛戦を戦い、雄州・蔚州の賊を平定。永平の攻防では大寧を陥落させ賊帥百人余りを捕縛、遼陽行省左丞相知行樞密院事として迤東の兵農を撫安した。
京師の争乱と最期
- 至正二十四年(1364年)博囉特穆爾と丞相吹斯戩・宦者保布哈が対立し、伊蘇は中書左丞相となった。博囉特穆爾が京師を再度攻めると、皇太子の命で昌平に軍を置いたが軍に戦意なく崩れ、皇太子は太原に奔り博囉特穆爾が京城を制した。
- 二十五年(1365年)皇太子が庫庫特穆爾と共に博囉特穆爾討伐を計画すると、伊蘇は良郷から永平へ転じ、庫庫特穆爾・遼陽の額森布哈国王らと連携。博囉特穆爾の将姚巴延布哈の軍を虹橋で不意打ちして捕縛。博囉特穆爾はこの敗北で自失し、まもなく誅殺された。
- 二十七年(1367年)中書右丞相となり山東分省を任されたが、二十八年(1368年)大明軍の山東攻略に対し莫州で敗れ、莫州の民を掠奪しつつ北へ逃走した。