元史卷百四十二 列傳第二十九 達實巴圖爾

出自と初期の軍功

  • 達實巴圖爾は曾祖耨埒、祖伊蘇岱爾(ともに伝あり)の子孫で、囊嘉特の子。世襲の万戸として羅羅宣慰司を鎮守し、土人の反乱を捕獲する功を挙げた。四川行省の推挙により船橋万戸として雲南征討に出征し、大理宣慰司都元帥に昇進。
  • 至正十一年(1351年)、四川行省参知政事に特除され、本部の特黙齊軍三千を率いて平章耀珠に従い荆襄の賊を討伐。安平站に進み、耀珠が江陵を平定した後、自ら襄陽攻略を請うた。

襄陽攻略

  • 至正十二年(1352年)、荆門に進んだが賊は十万に対し官軍わずか三千余であったため、宋廷傑の計で襄陽の官吏・土豪の避難者から義丁二万を募集し部伍を編成、蠻河で賊の要害を突破すべく屈万戸に間道から背後を突かせ挟撃、大破して襄陽城南で敵将三十人を捕え腰斬した。
  • 城内から内応を得て五月朔日四更に攻撃する密約を結び、当日城壁を破って襄陽を平定。賊の水軍も壊滅し、偽将王権も捕えられた。この功により資善大夫を加えられ、弟実勒們は襄陽達嚕噶齊(達魯花赤)、子博囉特穆爾は雲南行省理問に任じられた。
  • 以後も荆門・安陸・沔陽の賊を撃退し、十三年(1353年)には均・房・榖城を略し武当山寨を攻めて偽将杜将軍を捕らえ、四川行省右丞に陞進。峽州攻略などを経て十四年(1354年)四川行省平章政事兼知樞密院事、荆襄諸軍の統率を任された。

河南での攻防と憂死

  • 十五年(1355年)河南行省平章政事となり許州長葛で劉福通と戦い敗れたが、中牟で軍を立て直し、劉哈喇布哈の援軍を得て博囉特穆爾を救出。太康で大勝し亳州を包囲、偽宋主小明王を敗走させた。十六年(1356年)金紫光禄大夫を加えられ、劉福通と激戦を重ね、太康を平定。河南行省左丞相・知樞密院事に任じられ汴梁を守禦した。
  • 十七年(1357年)開府儀同三司・太尉・四川行省左丞相を加えられたが、朝廷から出師の督促が相次ぎ、賊の詐計により通和の偽書を摑まされたことを覚った達實巴圖爾は憂憤のあまり十二月庚子に病没した。子の博囉特穆爾に別伝あり。