元史卷百四十一 列傳第二十八 察罕特穆爾

字は廷瑞。北庭系の出自で、潁州沈丘の人。科挙進士を志した文人でありながら、至正十一年(1351年)の紅巾の乱に際し義兵を起こし、河南・関陝・河東を転戦して次々に平定した元末屈指の武将。汝寧達嚕噶齊から陝西行省・河南行省の要職を歴任し、汴梁を奪還して劉福通政権を崩壊させたが、至正二十二年(1362年)益都攻略中に降将田豊配下の王士誠に暗殺された。忠襄王に追封された。

年表(8件)

出自と挙兵

  • 察罕特穆爾、字は廷瑞。北庭の出自で、曾祖父庫庫台は元初に大軍に従い河南を平定した。祖父奈曼台・父阿嚕威は代々河南に居し、潁州沈丘の人となった。
  • 幼くして篤学で、科挙の進士試を受けたことがあり、当時名を知られた。身長七尺、眉が長く目を覆い、左頬に三本の毫(長毛)があり、怒ると毫が真っ直ぐに立ったという。常に当世に志を抱いていた。
  • 至正十一年(1351年)、汝潁で盗賊が蜂起し城邑を焼き長吏を殺し、通過するところことごとく残破した。数ヶ月のうちに江淮諸郡が陥落したが、朝廷が出兵しても成果を挙げられなかった。
  • 至正十二年(1352年)、察罕特穆爾は義兵を起こし、沈丘の子弟数百人が従った。信陽羅山の李思齊と兵を合わせ、奇計をもって羅山を攻略した。この功により朝廷から中順大夫・汝寧府達嚕噶齊(達魯花赤)に任じられた。義士たちが集まり一万人を得て一軍を成し、沈丘に屯して賊とたびたび戦い勝利した。

河南北部の平定と関陝の攻略

  • 至正十五年(1355年)、賊勢が拡大し汴梁以南の鄧・許・嵩・洛が陥落した。察罕特穆爾の軍は日ごとに強盛となり、転戦して北上し虎牢に戍って賊の鋒先を遏えた。賊が孟津を渡って覃懐まで焼き掠め河北が震動すると、察罕特穆爾は進撃してこれを大破し、残党を河洲で殲滅し河北が平定された。中書刑部侍郎、階は中議大夫に叙せられた。
  • 滎陽で叛いた苗軍を夜襲してほぼ全滅させ、中牟に屯営した。淮右の賊三十万が汴以西から中牟の営を襲おうとした際、死生の利害を諭して士卒を奮い立たせ、大風で砂塵が舞う中を自ら猛士を率いて奇襲、賊は総崩れとなり旗鼓を捨てて逃走、十余里を追撃し斬首は数え切れなかった。軍声はいよいよ振るった。
  • 至正十六年(1356年)、中書兵部尚書・嘉議大夫に陞進。賊が陜州に陥り殽函の要害を断ち秦晋を狙うと、知樞密院事達實巴圖爾とともに李思齊と協力してこれを討伐。夜のうちに殽陵を抜き交口に柵を立てて要害を固めた。賊は南山の粟を運んで持久戦を図ったが、察罕特穆爾は馬糞を焚いて煙を立てて欺き、その間に霊寶を奪取。賊が黄河を渡って平陸・安邑を掠めると追撃して大破し、多くが下陽津で溺死した。この功により中奉大夫・僉河北行樞密院事に加えられた。
  • 至正十七年(1357年)、賊が襄樊から出て商州を陥し武関を攻めると、官軍は敗走し賊は灞上に至って三輔を脅かした。察罕特穆爾は潼関に入って長駆し賊を撃破、殺獲は億万を数え、残党は南山から興元へ逃げ込んだ。関陝回復の功により資善大夫・陜西行省左丞に任じられた。
  • まもなく賊が巴蜀から秦隴に出て鞏昌を陥し鳳翔を窺うと、あらかじめ兵を分けて鳳翔城を守らせ、間諜を放って賊をおびき寄せ、鳳翔を幾重にも包囲させたところで、自ら鉄騎を率いて昼夜二百里を馳せ、城の内外から呼応して挟撃、賊を大潰させて数万を斬首、遺骸は百余里に及んだ。関中はことごとく平定された。

河北の防備と汴梁攻略

  • 至正十八年(1358年)、山東の賊が分道して京畿を犯すと、朝廷は諸方の兵を召集し、察罕特穆爾には涿州に屯するよう詔した。要害各所に兵を配して備え、みずからは精鋭を率いて召集に応じつつ、曹濮の賊を聞喜・絳陽方面で伏兵により撃破、河東を平定した。陜西行省右丞・陜西行臺侍御史・同知河南行樞密院事を兼ね、さらに関陝・晋冀・漢沔・荆襄一帯の軍事全権を委ねられた。
  • この年、安豐の賊劉福通らが汴梁を陥し宮闕を造営して独自の正朔を立て諸方の群盗を呼応させた。察罕特穆爾は北で太行を塞ぎ南で鞏洛を守りつつ、洛陽で叛将周全の攻撃を退け、陜西行省平章政事・同知行樞密院事に叙せられた。
  • 至正十九年(1359年)、汴梁奪還を図り、南北二道から遊撃隊を出して周辺を攻略しつつ、秦・晋の大軍を集結させて汴城を包囲、外城を奪取した。賊は幾度も出撃したが敗れ、城に籠って守りを固めた。察罕特穆爾は夜襲・偽装の柵で敵を消耗させ、八月についに城を陥とし、劉福通の擁立した偽帝を逃走させたうえで偽后・官吏五千余人・符璽宝貨を捕獲、居民二十万を保護し略奪を許さなかった。河南は十日足らずで平定され、京師に献捷の報が届き歓声が動いた。この功により河南行省平章政事・知河南行樞密院事・陜西行臺御史中丞に任じられ、詔書をもって天下に告げられた。

山東平定を目指す

  • 河南平定後、兵を関陝・荆襄・河洛・江淮に分けて配置し、太行に重兵を置いて山東奪還を計画。車船・武備を整え、農耕・訓練に努めた。
  • 一方、達實巴圖爾の子博囉特穆爾が大同に駐屯し、晋冀の併呑を図って兵争が起こり、朝廷の和解の詔にも従わなかった(詳細は本紀および達實巴圖爾傳にある)。
  • 至正二十一年(1361年)、山東の群賊が内訌し、済寧の田豐が投降。察罕特穆爾は諸将と会して山東進攻を発議し、并州・遼沁・澤潞・懐衛の軍を分道させ、自ら鉄騎を率いて孟津を渡り東進、東平・済寧を回復した。
  • 済南に集結した賊を包囲し攻略、益都を包囲して塹壕を掘り攻具を整えたが、なお陥落しなかった。

非業の死

  • 至正二十二年(1362年)六月、益都籠城中に田豐・王士誠が密かに賊と結んで叛意を抱いた。田豐降伏の折には察罕特穆爾は疑わず信頼していたが、田豐が変を謀ったのちに営塁を視察するよう請われ、周囲は往くべきでないと諫めたが「私は誠意をもって人に接している、どうして人ごとに疑えようか」と述べ、供の護衛も断り軽騎十一人のみで出向いた。
  • 王信の営、田豐の営を経て、ついに王士誠に刺殺された。訃報が届くと帝は震悼し、朝廷の公卿から京師四方の人々まで男女老幼を問わず慟哭しない者はなかった。
  • 帝は白気の異変を予見しており「山東は必ず良将を一人失う」と語っていたという。詔により忠襄王に追封され諡は献武、後に潁川王・忠襄と改諡された。食邑は沈丘県に定められ、各地に祠を立てて祭られた。父阿嚕威は汝陽王に、のちに梁王に進封された。

庫庫特穆爾――益都陥落と山東平定

  • 察罕特穆爾の死後、庫庫特穆爾(察罕特穆爾の甥で幼くして養子となっていた)が銀青栄禄大夫・太尉・中書平章政事・知樞密院事・皇太子詹事などに任じられ、父の兵を引き継いだ。
  • 哀しみを胸に討伐を続け、益都の攻城を強化。地下道を掘って侵入し、十一月に城を陥とし、渠魁陳猱頭ら二百余人を捕えて京師に献じた。田豐・王士誠を殺してその心臓で父を祭った。関保に莒州を取らせ、山東はことごとく平定された。
  • 東は淄沂、西は関陝に至るまで平穏となり、庫庫特穆爾は汴洛に駐屯し、朝廷はこれに依存して安定を図った。

庫庫特穆爾――孛羅帖木児との抗争

  • 一方、博囉特穆爾は察罕特穆爾没後も晋冀の兵争を続け、帝の再三の解諭にも応じず、両者の遺恨は日に深まった。
  • 至正二十三年(1363年)、御史大夫魯達実と知樞密院事図沁特穆爾が皇太子に罪を得て大同へ逃げ、博囉特穆爾に匿われた。魯達実が帝の母方の縁者であったため帝は皇太子にこの件を止めさせようとしたが皇太子は従わず、帝は密かに博囉特穆爾に事を隠すよう命じた。しかし丞相吹斯戩・宦者保布哈は皇太子に与し、事を追及しようとした。
  • 至正二十四年(1364年)、吹斯戩・保布哈が博囉特穆爾・魯達実を不軌の謀反として誣告し、皇太子の怒りも収まらなかった。三月、帝は博囉特穆爾の官職を削り兵権を奪う詔を下したが、博囉特穆爾はこれを受けず兵を率いて京師に迫り、吹斯戩・保布哈の引き渡しを求めた。やむなく帝は両人を差し出した(詳細は吹斯戩・博囉特穆爾傳)。
  • 七月、博囉特穆爾は魯達実・図沁特穆爾と結び宮城を犯した。庫庫特穆爾は部将白索珠に一万騎を与え京師を守らせたが龍虎台で戦利あらず、皇太子を奉じて太原へ逃れた。博囉特穆爾は入朝して丞相の位に就き、白索珠は二万騎を率いて漁陽に屯し朝廷を支援した。
  • 至正二十五年(1365年)、庫庫特穆爾が兵をもって大同を攻略。皇太子は庫庫特穆爾に大挙討逆を促し、丞相伊蘇の軍を東方に、諸王の軍を西方に配し、自らは庫庫特穆爾の軍で中道から京師へ向かった。まもなく博囉特穆爾は誅殺され、帝は白索珠に京師の守備を命じ、皇太子は帰京、庫庫特穆爾も扈従して入朝した。
  • 九月、巴咱爾が右丞相、庫庫特穆爾が左丞相に任じられた。巴咱爾は累朝の旧臣であり、後進の庫庫特穆爾と並んで相位に就くことを快く思わず、二ヶ月後には南方への出師を願い出た。当時、中原は無事であったが江淮川蜀は依然として朝廷の支配下になく、皇太子はしばしば出征督師を求めたが、帝は難色を示した末に庫庫特穆爾を河南王として天下の兵を統べさせ、代わって出征させることとした。

庫庫特穆爾――河南王としての専横と諸将の離反

  • 庫庫特穆爾は分省を自らに随行させ、官属の規模は朝廷にほぼ匹敵するほどとなり、孫翥・趙恒らを謀主として用いた。
  • 至正二十六年(1366年)二月、京師から河南に戻り一時廬墓に服そうとしたが、周囲の勧めで再び北上し懐慶、彰徳に移り駐屯した。
  • かつて李思齊は察罕特穆爾と共に義兵を起こし対等の地位にあったが、庫庫特穆爾がその兵を総べる立場になったことに不満を抱いた。張良弼が命令を最初に拒み、孔興・図魯卜らも功を恃んで独自の軍を志向し、諸将の対立が深まり、ついに互いに敵対する事態となった。
  • 庫庫特穆爾は関保・浩爾齊を派して張良弼を鹿台で攻めたが、李思齊がこれに加勢し、決着がつかなかった。南征の命を受けながら彰徳に退居し陜西で勝手に用兵を続け、天子の命令を無視したため、朝廷は謀反の疑いを持つに至った。
  • 皇太子が太原に逃れた際、唐の粛宗の霊武故事に倣って自立を勧める者があったが、庫庫特穆爾は布埒齊らとともにこれに従わなかった。しかし帰京の際、皇后竒氏が庫庫特穆爾に重兵で皇太子を擁して入城させ帝に禅位を迫らせようとした。庫庫特穆爾はその意図を察し、京城まで三十里の地点で軍を解散させた。これにより皇太子の恨みを買った。
  • 皇太子がしばしば江淮への出師を促しても、庫庫特穆爾は弟の托音特穆爾と部将諤勒哲摩該らを山東方面に派すのみで、西方の諸軍とは互いに勝敗を繰り返し決着がつかなかった。帝が再三和解を命じても、庫庫特穆爾はかえって詔使添霞努らを殺害し、跋扈の実態が明らかとなった。
  • 至正二十七年(1367年)八月、帝は皇太子に自ら天下の兵馬を統べさせ、庫庫特穆爾には潼関以東から江淮を粛清させ、李思齊には鳳翔以西から西川を、図嚕には張良弼・孔興・図魯卜らとともに襄樊を、王信には山東防衛を分担させる詔を下した。しかし皇太子は結局出征せず、庫庫特穆爾も終始命を拒み続けたため、摩該・関保らは離反した。
  • 関保は察罕特穆爾挙兵以来の勇将で功が最も高く、摩該も用兵に長け察罕特穆爾に信任されていた。両人は庫庫特穆爾に不臣の心があると見て叛き、その罪状を朝廷に訴えて共同で討伐に踏み切った。皇太子は薩蘭托里・特里実克・巴延特穆爾・李国鳳らの計により撫軍院を立てて天下の軍馬を統制し、専ら庫庫特穆爾に備えた。摩該らには忠義功臣の号が与えられた。
  • 十月、詔により庫庫特穆爾の太傅・中書左丞相・河南王の実権が削られ、汝州を食邑として弟の托音特穆爾と共に河南府に居住させられ、河南府は梁王の食邑とされた。従軍の官属は朝廷に召還され、庫庫特穆爾の軍は方面ごとに白索珠・浩爾齊(帳前)、李克彞(河南)、伊蘇(山東)、薩蘭托里(山西)、摩該(河北)に分割統率された。
  • 庫庫特穆爾は詔を受けたのち澤州に退いて屯した。二十八年(1368年)、朝廷は左丞孫景益に太原の分省を命じ、関保に軍を統括させたが、庫庫特穆爾は兵を出して太原を奪い朝廷が置いた官をことごとく殺した。皇太子は魏賽音布哈・関保らに李思齊・張良弼らの諸軍とともに澤州で挟撃させ、天子も庫庫特穆爾の爵邑削奪と討伐を命じ、帰順する将士官吏には罪を免ずるとしたが、孫翥・趙恒だけは赦されなかった。
  • 二月、庫庫特穆爾は平陽に退き、関保は澤潞二州を占拠して摩該と合流した。李思齊・張良弼・孔興・図魯卜らは長らく庫庫特穆爾と対峙していたが、当時すでに大明軍が河南に迫っており、李思齊・張良弼は庫庫特穆爾に使者を送って「出師は本意ではなかった」と伝え、兵を解いて西へ大掠しつつ退いた。
  • 七月、摩該・関保が平陽を攻めた。庫庫特穆爾は気勢が衰えていたが、摩該・関保が祁県に分軍したと知ると夜襲を仕掛け大敗させ、摩該・関保はともに捕えられた。朝廷はこれを聞いて撫軍院を廃止し、特哩実克・巴延特穆爾・李国鳳らは誤国の責を問われ黜けられた。
  • その後、庫庫特穆爾が上疏して事情を陳べると帝も悔悟し、過去を不問とする詔を下した。しかしその頃すでに大明軍は山東・河洛・中原を平定していた。閏七月、帝は改めて庫庫特穆爾を河南王・太傅・中書左丞相に復し、孫翥・趙恒も旧職に復して、河北からの南討、山東への進撃、潼関からの出撃などを命じたが、伊蘇の軍は潰走し、図嚕・李思齊の軍も出撃せず、庫庫特穆爾もまた平陽から太原に退いて南進しなかった。事態はすでに如何ともし難くなっていた。

庫庫特穆爾――太原撤退と元朝滅亡

  • まもなく大明軍が京城に迫り、帝は北へ逃れ元は滅んだ(原文のまま)。大明軍が太原に至ると、庫庫特穆爾は城を捨てて逃走し、残兵を率いて西方の甘粛へ奔った。