叛乱鎮圧の功
- 拜特穆爾は欽察人。至元中に哈喇齊として宿衛に備え、忠謹をもって武節将軍僉左衛親軍都指揮使司事を授かった。二十四年(1287年)叛王納延討伐に御史大夫伊蘇特穆爾の麾下として従い、和爾阿喇勒河で納延兵を破り哈里雅爾河でも敗走させ、その党金嘉努・拜布古が逃げるのを扎爾瑪圗河まで追撃、大夫は将二人を斬り孟克山で金嘉努を擒えた。
- 二十五年(1288年)顕武将軍。哈坦の叛乱に諸王奈瑪岱に従って討ち、鄂摩站烏拉河等処で連戦連勝、特黙哈必爾噶でも破り、明安鄂倫城で哈坦を迎撃、呼蘭伊爾まで追撃、阿爾圗と共に一日三戦して五人を手殺し裨将一人を捕らえた。特爾勒で単身哈坦を突撃し三十余箭を身に受けながら生還、大夫はその功に感じて救援しなかった潰軍を罰した。車駕親征の際は烏爾呼河で従軍し格哷勒河で哈坦の兵を初戦で退け、駙馬阿嘍罕を捕虜とし、帝は捕らえた敵将の妻を賜った。巴朗では呼圗克圗爾罕と戦い裨将五人を殺し庫森を生擒。九月には竒塔特章・達勒達・女直伊哷森ら約千五百戸の招降を命じられた。
- 二十六年(1289年)春、師還後にイジン大王の境を再び戍守。海都の擾辺に対し先発を命じられ、吉魯爾河に至って布雅の叛乱を移兵して討ち、その党巴延を捕らえて献じ、帝は褒賞として自らの得た巴延の女察喇を賜った。同年冬、東路蒙古軍上万戸府が立てられ欽察・奈曼・諾果蘇・納沁ら四千余戸を統べ、懐遠大将軍上万戸・三珠虎符を賜った。
- 二十七年(1290年)哈坦の再侵高麗に徹爾特穆爾と共に進討、二十八年(1291年)正月鴨緑江で哈坦の子羅丹に敗れたが報告後、帝は奈瑪岱・色徹肯らを遣わし拜特穆爾を先鋒とした。色徹肯軍が禅定州で先に哈坦を破り、奈瑪岱の合流でさらに破った。拜特穆爾は百騎で大河まで追撃してその妻子を捕らえ、哈坦が最後の八騎まで減った末に三騎まで、更に単騎で追跡したが山中で見失った。奈瑪岱はその勇を賞し羅丹の妻を与え、鄂勒哲がその功を朝廷に上申、金帯・衣服・鞍馬・弓矢・銀器等を賜った。
- 二十九年(1292年)叛王伊竒哩討伐で妻子・畜産を虜にし沁河まで追撃、女直戸五百余を得て漁戸に編入、拜特穆爾は馬站七所を置き年ごとに魚を捕り駅伝で進上させた。成宗即位後も官を留められ、車駕の上京の際は千人の兵を従わせるのが恒例となった。