出自と伐宋従軍
- 安塔哈は㾗都斯垣の人。祖の塔爾海巴圖爾は驍勇で戦に善く、かつて太祖に従って黒河の水を共に飲み、功により千戸となった。父の布哈がその職を襲い、布哈が卒すると安塔哈がこれを襲った。魁偉で大度があり才略は人に過ぎ、大帥の烏蘭塔達に従って雲南を征し身を挺して行陣の先を務めた。師が戻ると世祖に潜邸で仕えた。
- 至元九年、駅を馳せて諸軍を督し襄陽を攻めることを命じられ、襄陽が下ると論功で鎮国上将軍・淮西行枢密院副使を授けられた。正陽の東西の城を築くと、五月、霖雨があり、宋の将の夏貴は淮水の溢れに乗じて正陽を争いに来た。安塔哈は衆を率いてこれを防ぎ、貴は逃げたので安豐城下まで追って戻った。中書右丞・行枢密院事を拝し、渡江して丞相の巴延の軍と合わせ池州を克した。
- 十二月、師は建康に次った。宋の鎮江の摂守の石祖忠が使者を遣わし降を乞い、揚州の守将の李庭芝はこれを聞き兵を遣わし包囲を突破して撃ってきたが、安塔哈は師を率いてこれを救い、宋兵は望風して退走した。当時、真・泰の諸城はなお宋が守っており、鎮江は襟喉を扼する地であったが城壁が固くなかったので、安塔哈は木柵を立てて居民を保障し、また兵を分けて瓜洲に屯し揚州の援を絶った。宋の将の張世傑・孫虎臣が舟師を率いて江中の焦山下に陣を布き勢いは甚だ張っていたが、安塔哈は平章の阿珠とともに南岸に登り諸軍を督してこれを大破した。宋の殿帥の張彦が平江の都統の劉師勇とともに呂城を襲ったので、万戸の輝図を遣わしてこれを撃たせ彦を斬った。十月、行枢密院を行中書省に併せると、安塔哈はなお右丞となった。
- 常州を克し平江・嘉興を降した。十二年正月、兵を臨安に会し、宋が幼主・母后とともに降り入覲すると、詔により再び瓜州に趨いて阿珠と淮南の事宜を議した。淮南の平定は巴延・阿珠伝に詳しい。十四年、榮禄大夫・平章政事・行中書省事を授けられた。十五年二月、召されて闕に赴き、光禄大夫・行中書省左丞相を拝し、治所を臨安に移した。二十年、征東行省丞相に遷り日本を征したが、風に遭って舟が壊れ兵を十のうち七八まで喪った。
- 二十二年、行同知沿江枢密院事、二十三年、行江西中書省事となり入朝した。二十四年、扈従して納顔を征し、師が戻ると朝請を奉じ京師に居た。二十六年十二月、卒した。年五十六。推忠翊運宣力功臣・開府儀同三司・太師・上柱國を贈られ、順昌郡王に追封、諡は武敏。子の阿里瑪は江淮行枢密副使、累官して江南諸道行御史台御史大夫に至って卒した。