元史卷一百二十九 列傳第十六 阿嘍罕

出自と伐宋従軍

  • 阿嘍罕は扎拉爾氏。祖の博綽は太祖に仕え和尼齊となり、また博囉齊として攻城掠地しばしば戦功があった。太宗の即位に伴いなおその職として隴北・陜西を征し、身を挺して戦士の先に立ち戦死した。父の伊埓肯は幼くして皇子のヤルギヤンに隷し衛士長となり、乙未年、皇子の奎春呼圖克に従って南征し功を重ね万戸を授けられ、天下馬歩禁軍都元帥に遷った。大将の察罕が卒すると伊埓肯がその職を領し諸翼軍馬都元帥を拝し大軍を統べて淮東西の諸郡を攻め、戊午年、揚州で戦死した。阿嘍罕は諸翼蒙古軍馬都元帥を襲った。己未年、世祖に従って渡江し鄂に至って還った。
  • 世祖の即位に伴い穆爾布延布拉克まで従い、宗王の額哷布格が兵を称して叛くと、阿嘍罕は所部の軍でアルダル・琿塔哈の兵を實黙圖で撃破し、河西まで追った。功により金五十両を賜った。中統三年、李璮が叛いて済南に拠ると、大軍がこれを討ち、阿嘍罕は璮と老倉口で戦ってこれを破った。璮は誅せられ、都元帥を授けられ金虎符・銀印を賜った。四年春、上万戸に改まり、都元帥の阿珠に従って宋を伐ち、九月、師は襄陽の西・安陽灘に次り宋兵を迎え戦ってこれを破った。五年、大軍が襄樊を囲むと、阿嘍罕は南面の百丈山・漫河灘を守り、兵はしばしば交戦したが宋は師を興せなかった。十年春、樊城が破れ襄陽も降った。
  • 十一年秋、丞相の巴延が阿珠とともに襄陽に師を会すると、阿嘍罕を遣わして諸翼軍を率いて郢を攻めさせ諸州を平定させた。十月、郢州の南門堡を奪った。丞相の巴延・阿珠は自ら騎兵を率いて漢陽の城壁を巡視し漢口から渡江しようとしたが、宋人は精兵で漢口を扼していたので、阿嘍罕に蒙古騎兵を率いて道を倍にして進ませ沙蕪堡を撃破させ、そのまま江に入り鄂州を取らせた。阿嘍罕は断事官の楊仁風とともに東の寿昌を攻略し米四十万斛を得て、そのまま左翼軍を統べて流れに順じて東下し沿江の州郡はことごとく降った。そこで住民を撫輯した。

建康・臨安攻略

  • 十二年六月、昭毅大将軍・蒙古漢軍上万戸を加えられ建康に屯駐した。丞相の巴延が詔を受けて闕に赴くと、阿嘍罕が留まって省事を治め、中奉大夫・参知政事を拝した。丞相の巴延が軍を戻し三道に軍を分けて並進する中、阿嘍罕は西道から溧水・溧陽に趨き、銀樹・東壩を攻め破り護牙山・慶豊圩に至り宋軍を敗り七千級を斬り、さらにその将の祝亮と裨校七十二人を捕らえ三千級を斬った。また宋兵と戦い七千級を斬り、その援兵を逐って数十里退かせ、さらにその都統ら三人を破り三千級を斬った。建平県を破りその守吏を殺し、広徳軍・独松関に進攻した。
  • 以前、宋の広徳の守の張濡は国信使の廉希賢・厳忠範らを独松関で殺していた。阿嘍罕の軍が安吉州の上柏鎮に次ると、濡は兵を率いて来て拒み戦ったが、これを大破して二千級を斬り、その副将の馮翼を生け捕りにして軍前で戮した。濡は逃げたが追って斬った。
  • 十三年春、宋が国を挙げて降ると、詔により阿嘍罕は左丞の董文炳とともに高興らを率いて浙東の温・台・衢・婺・処・明・越および閩中の諸郡を攻め、その運使・提刑ら五百人を降した。宋の嗣秀王の趙与檡を安福県まで追襲すると、与檡は軍三万で拒み戦った。阿嘍罕は自ら士卒に先立って高興・色埓黙らを率いて渡江し四十余里鏖戦し、その歩帥・観察使の李世達を斬り、与檡とその将吏百八十人を生け捕りにしてすべて斬り、その銅印五、軍資器仗を数えきれぬほど獲た。泉州の蒲寿庚が降り江南が平定されると、参知政事として金虎符を帯び江東宣慰使を行った。
  • 十四年、入見し資善大夫・行中書省左丞に進み、まもなく右丞に遷りなお江東を宣慰した。十八年、召されて光禄大夫・中書左丞相を拝し行中書省事として蒙古軍四十万を統べ日本を征したが、慶元に行き軍中で卒した。子の貝降がこれを襲い、累って江浙行中書省平章政事に遷りなお本軍万戸を領した。貝降が卒すると弟の也蘇岱爾が襲い、左翼蒙古軍万戸から累って河南江北行省平章政事兼山東河北蒙古軍大都督に遷った。