出自と憲宗期の四川攻略
- 耨埒は沙卜珠岱の人。祖の博囉岱は太祖の宿衛となり、太宗に従って金を平らげ河南に戍した。父の丹達爾は憲宗を佐けて阿蘇・欽察等の国を征し功があり都元帥を拝した。壬子年、陜西・西海・鞏昌の諸軍を率いて宋を攻め蜀に入り、癸丑年、総帥の汪特格とともに利州を立て、甲寅年、碉門・黎・雅等の城を攻め、乙卯年、重慶に入り都統制の張実を捕らえた。この年に卒した。
- 耨埒は容貌が偉丈で長身、勇力は絶人であり、多く謀略を持ち、常に父の軍中に従っていた。丁巳年、憲宗は兵一万を将いさせ利州から地を略し、白水を下り大獲山を過ぎ梁山軍を出て夔門に直抵させた。戊午年、釣魚山に戻り軍を引き成都で都元帥の阿多古らと会おうとした。宋の制置使の蒲擇之は安撫の劉整・都統制の段元鑑らを遣わし衆を率いて遂寧の江箭灘渡に拠り東路を断とうとした。耨埒の軍は至ったが渡ることができず、朝から暮まで大戦し、二千七百余級を斬り、そのまま長駆して成都に至った。帝はこれを聞き金帛を賜って労った。
- 蒲擇之は楊大淵らに劔門および霊泉山を守らせ、自ら四川の兵を将いて成都を取ろうとしていた。ちょうど阿多古が死んだので、諸王の額布根と諸将のトリタイらは「今、宋兵は日ごとに迫っており、我が帥が死んだと聞けば必ず全軍で来攻するだろう。その鋭鋒には当たれない。我が軍は行在から遠く、上命を待って大帥を建ててから敵を防ごうとすれば間に合わないだろう。むしろ耨埒を推して長とし号令して諸将を出し、彼の不意を突けば必ず敵を破ることができる」と謀り、衆はこれに同意し耨埒を長に推した。
- 耨埒は諸将を率いて宋軍を霊泉山で大破し、勝ちに乗じて韓勇を追い擒として斬った。蒲擇之の兵は潰え、雲頂山城を進んで囲みその主将の帰路を扼したので、その主将は突然の事態に策を失い衆を率いて降った。城中は食が尽きると、また守将を殺して降った。成都・彭・漢・懷・綿等の州はことごとく平定され、威茂の諸畨もまた帰順してきた。耨埒は金銀の竹箭・銀銷刀を捧げて蘇克を遣わし献上させたところ、帝は黄金五十両を賜り、軍中で真に都元帥に拝命させた。
- 当時、耨埒の軍はわずか二万で、そのうち五千を巴延巴圖爾らに授けて成都を守らせ、自らは一万五千を率いて馬湖から重慶に趨いた。冬、帝は軍を進めて大獲山に至り、耨埒は号五万の歩騎と戦船二百艘を率い成都を発し、張威に五百人を先鋒として水陸並進させ、重慶江に鎖を張って呉蜀の路を絶ち、資州の口に橋を縛ることで師を渡らせようと図った。千戸の温都爾は舟師を率いて下り、耨埒は歩騎を将いて南へ、旌旗・輜重は百里に及んで絶えなかった。鼓譟しながら瀘を渡り、舟を放って東に向かった。
- 蒲擇之は兵を分けて道を扼したが、遭遇するたびに敗れた。耨埒は涪に至り浮橋を造り橋の南北に軍を駐めて宋の援兵を杜んだ。大軍に瘧癘が多いと聞き、人を遣わして牛・犬・豕をそれぞれ一万頭進呈させた。翌年春、行在所に朝じ、帰って思・播二州を討ち、その将一人を獲た。宋の将の呂文煥が涪の浮橋を攻める頃、新たに立った成都の士馬はその水土に耐えられず病死する者が多かった。耨埒はこれを憂えたが密旨により督戦せざるをえず、やむなく出師して文煥の軍を大破し、その将二人を獲て斬った。そのまま班師すると、文渙は兵をもってその後を襲ったが、耨埒は戦ってこれを退けた。
- 中統元年、世祖の即位に伴い耨埒は入朝し、虎符および黄金五十両・白金二千五百両・馬二匹を賜った。耨埒は梁載を遣わして黎・雅・碉門・巖州・偏林関の諸蛮を招降させ、漢・番二万余戸を得た。まもなく詔により蘇克に西川の兵と陜西の諸軍を分けて耨埒に属させ、秦・鞏・唐古の地を鎮させた。三年、宋の将の劉整が瀘州をもって降ると呂文煥がこれを囲んだので、詔により兵を遣わして援けに向かわせると、文煥は敗走し、瀘州の民を成都・潼川に徙した。四年、劉整に讒言され上都に召され取り調べられたが実状はなく、詔により釈された。帰る途中、昌平で卒した。子は伊蘇岱爾。
伊蘇岱爾(耨埒の子)――四川平定
- 伊蘇岱爾は勇智がその父に似ていた。至元十一年、世祖に入見し、行樞密院の和塔齊に属し兵事を習わせられ、嘉定を囲む軍に従い三千人で三龜九頂山に至り地形を観察し、宋の安撫の昝萬壽の兵を破り五百級を斬った。功により虎符を賜り六翼逹嚕噶齊を授けられた。昝萬壽はまもなく部将の李立を遣わし嘉定・三龜九頂・紫雲の諸城砦をもって降し、さらに行枢密副使の呼敦に従って兵を率いて下流の諸城を巡らせるとみな望風して帰順した。
- 呼敦は兵二万で東川行枢密院の哈達と会し重慶を囲んだが一年余り下らなかった。帝は行枢密副使の布哈に将を代えることを命じ、布哈は兵一万余で城下に至った。伊蘇岱爾は二十余騎を率いてその門を攻め、宋の都統の趙安が出て戦うと、伊蘇岱爾は三度その軍に入り再び猛士を狭んで出て、大兵が四方から集まって五百余級を斬った。趙安は門を開いて降った。制置使の張珏は逃げたが、涪州まで追ってこれを擒とした。捷報が至ると帝は玉帯・鈔五千貫を賜い、西川蒙古軍馬六翼新附軍招討使を授け、四川西道宣慰使に遷り都元帥を加えられた。
- 羅氏鬼国と亦奚不薛が叛くと、詔により四川の兵に雲南・江南の兵を会させて討伐させた。霊関に至ると亦奚不薛は先鋒の阿麻・阿豆らに数万の衆を率いて迎撃させたが、伊蘇岱爾は馳せてその軍に入り阿麻・阿豆を挟んで出てこれを斬った。亦奚不薛は懼れ、その部下五万余戸を率いて降った。功により西川等処行中書省右丞を拝し、金帛・鞍轡を加賜された。
- 西南夷の雄左都掌蛮の得蘭右が叛くと、詔により兵をもってこれを討ち降し、四川等処行枢密副使に改まった。冬、烏蒙蛮が密かに都掌蛮と連んで叛くと、詔により兵を雲南行院・拜達勒に会させ討伐を進め、伊蘇岱爾は烏蒙蛮を擒とした。帝は玉帯・織金服を賜い、蒙古軍都万戸に遷り、さらに銀鼠裘を賜って唐古の地を鎮させ、同知四川等処行枢密院事に進みなお鎮に居た。成宗の即位に伴い四川等処行中書省平章政事を拝した。
- 武宗の時、四川から雲南に遷り左丞相を加えられなお平章政事となり、南征し叛蛮を討つ中で瘴毒に感じ成都に還って卒した。弟の巴拉は蒙古軍万戸を襲い、巴拉が卒すると次子の巴延がこれを襲い四川行省左丞を拝した。長子の囊嘉特は官が四川行省平章政事に至った。