元史卷一百二十 列傳第七 察罕

出自と太祖に見出されるまで

  • 察罕は初め伊德という名で唐古鄂摩克氏、父吹辰類は夏の臣であった。庶妾の子であったため嫡母に容れられず牧羊者に配され、母から出自を告げられて武勇に秀でた。幼くして野で羊を牧しながら杖に帽子を掛けて跪拝する礼儀を演じ、太祖が狩猟中にこれを見て問うと「一人で行くときは帽子を上に、二人で行くときは年長者を尊ぶ、大官が来ると聞いたので礼儀を習っていた」と答えた。太祖は感心して連れ帰り、光獻皇后に「今日狩猟で佳児を得た」と語り、内廷で育てさせ、成長後は蒙古の姓を賜り宮人鴻吉哩氏を妻とした。ある夜、脱いだ靴の下に蛇がいたのを見て「これは人が忌み嫌うものだがお前には吉兆となる、子孫にこの類を殺さぬよう戒めよ」と太祖から言われた逸話が伝わる。

金討伐と西夏平定

  • 雲中・桑乾から野狐嶺の金将達實の陣を偵察し「彼の馬足は軽々しく動き恐れるに足らぬ」と報告、太祖はこれにより鼓行して進み金軍を破り白樓を七日で落とした。功により御帳前首千户となった。太祖の布哈爾・賽瑪爾堪の西域二城攻めでは、回回国主扎拉鼎が鐡門闗で拒守する中を先駆して道を開き、その将を斬って衆を降した。西夏討伐にも従い肅州を破った際、察罕の父吹辰類が城中の留守にあったため書を射込んで招降を図り、弟を城の高処で対面させたが、副将恩楚ら三十六人が謀って吹辰類父子と使者を殺し力戦して城が破れた。太祖は民を尽く坑にしようとしたが、察罕が「百姓に罪はない、三十六人だけを罰すべき」と諫めた。
  • 靈州攻めで夏の十万の援軍を太祖が自ら大破し、六盤に還った。夏主が中興城を堅守すると、察罕は入城して禍福を諭し降伏の議が進む中で太祖が崩御、諸将が夏主を捕らえ殺した。再び屠城の議が起きたが察罕は力諫して止め、遺民を安集した。

太宗以後の歴戦と晩年

  • 太宗即位後は河南討伐に従い、清水・達蘭達巴の地で還って馬三百・珠衣・金帯・鞍勒を賜った。皇子庫春・胡土克圖の宋討伐では斥候を務め、親王昆布哈の南伐にも従い乙未(1235年)棗陽・光化軍を落とした。丁酉(1237年)昆布哈が行在に召還されると全軍を察罕に委ね、光州を落とした。戊戌(1238年)馬步軍都元帥として天長県・滁・夀・泗等州を攻略した。定宗即位後、黒貂裘や鑌刀を賜り江淮方面の開拓を命じられた。憲宗即位後も金五十兩・珠衣・金綺などを重ねて賜り、都元帥兼領尚書省事として汴梁・歸徳・河南・懐孟・曹濮・太原の三千余户や諸処の草地一万四千五百余頃・户二万余を食邑として与えられた。乙夘(1255年)卒した。推忠開濟翊運功臣・開府儀同三司上柱國・河南王・諡武宣が贈られた。子は十人、長は穆呼哩。

穆呼哩(察罕の子)――憲宗・世祖への従軍

  • 穆呼哩は憲宗に直宿衛として仕え釣魚山攻めの功で四鄂爾多齊哩克昆千户を授けられた。世祖即位後、至元四年(1267年)宋討伐で江陵から安陽灘に退く際、宋兵に退路を断たれたが穆呼哩が奮撃して撃退、都元帥阿珠が落馬したのを救って上馬させ鏖戦、宋兵を退けた。銀二百五十兩を賜り蒙古軍万戸となり、襄樊攻めにも功があったが軍中で卒し、榮禄大夫平章政事柱國・梁國公・諡武毅が贈られた。従孫の伊埒薩哈勒があとを継いだ。

伊埒薩哈勒――河西・南臺での弾劾

  • 伊埒薩哈勒の祖父吹且は太祖に見え、皇子察哈台に属して扎爾古齊となった。父阿卜呼は諸王阿勒呼木に仕え西域に住んだ。至元十年(1273年)貴族子弟から宿衛に選ばれ舒庫爾齊として服御を掌り、政の大事はしばしば相談された。河西を巡察した際、諸王哲伯特穆爾の官の濫用を奏し、河東提刑按察使に抜擢され平陽路達嚕噶齊台哈布哈を追放した功で黄金百兩・銀五百兩を賜り南臺中丞に進み、帝は内府の宝刀を賜って「これで外臺を鎮めよ」と言った。丞相阿哈瑪特の子呼遜が江淮行省平章として貪穢を働くと、その姦を発いて贓鈔八十一万錠を得て誅殺、江淮釈教総攝嘉木揚喇勒智らの不法も弾劾し諸道を震撼させた。
  • 二十一年(1284年)北京宣慰使に転じ、諸王納延が遼東に鎮していたのが叛意を持つと察して密かに備えを請うた。二十三年(1286年)宣慰司を廃して遼陽行省が立つと参知政事となり、まもなく納延が果たして反すると帝親征に伴い糧儲の運輸を司って乏しくなく、東方平定に功があった。左相に進み、二十七年(1290年)諸王算濟の娘を尚す際に資装を整え玉帯を賜り、四川行省左丞に転じ、二十九年(1292年)再び玉帯を賜った。元貞元年(1295年)成宗即位の入朝後に卒した。弟は喇勒智喇斡。

喇勒智喇斡――蜀・荊湖・湖廣の治績

  • 喇勒智喇斡は裕宗の東宮筆且齊であった。至元十八年(1281年)蜀の兵禍からの回復を図り近臣として嘉定路達嚕噶齊に任じられ、闢田均賦・弭盗息訟の政を謹んで行い民を安んじ、能吏として推薦された。雲南で数十万の盗が成都を窺うとの急報を大臣が疑ったが、帝は「雲南は朕が経理する地、忽せにできない」として労い、「南人は乱離に生まれ育ち兵を厭い禍を畏れる、御し方を誤れば乱になる、帰って朕の意を諸将に告げよ、叛く者は討ち服す者は捨てよ、多殺で人心を傷つけるな」と諭した。喇勒智喇斡は蜀に至り上旨を宣布した後、泉府卿、刑部尚書に転じた。小吏が漕臣劉獻の倉粟窃取を誣告し、宰相僧格が聚斂のために服を偽らせようとしたが、喇勒智喇斡は「刑部は天下の持平、輦轂の下で漕臣を寃死させては四方を正せぬ」として実を奏し、これが丞相の意に逆らって江東道宣慰使に出された。任地では学を興し俊秀を抜擢、豪民滑吏を刑戮せずに治めた。
  • 元貞二年(1296年)四川行省参知政事に遷り、蜀で夫殺しの婦人を数十人拘留し拷問しても実を得なかった案件を按じて解決した。大德三年(1299年)参知政事から湖南宣慰使、荊湖宣慰使に改まり、荊湖の公田の弊(実田がないのに輸租を課す)を上奏、七年(1303年)官に公田のない者から俸給に随い支給する詔が出て民力が蘇った。七年再び四川行省参知政事、八年(1304年)左丞に進んだ。雲南王入朝時に駅騎で狩猟しようとしたのを「駅騎は命令伝達のためで急務でなければ馳せられぬ、まして狩猟か」と諫め止めさせた。蜀の饑饉には勧分・私財での買地施与などで多くを救った。十年(1306年)入朝、白金対衣を賜り資徳大夫湖廣行省左丞に加えられ、湖廣の歳織幣の弊(買絲での姦利や工官の刻剥)を、使者を送らず工に賈させることで解決し費数万貫を省いた。至大三年(1310年)年五十七で官にて卒した。資徳大夫陜西行省右丞・上護軍・寧夏郡公・諡忠惠が贈られ、後に推誠亮節崇徳贊治功臣・榮禄大夫中書平章政事柱國・秦國公が再贈された。子は二人、長は瑪南(翰林學士承㫖)、次は韓吉納(御史大夫)。孫の達爾瑪は内府宰相。