元史卷六十六 志第十七下 河渠三

黄河(賈魯治河)

  • 至正4年(1344年)夏5月、大雨が20余日続き黄河が暴溢して水は平地で2丈余の深さとなり、6月には北の白茅堤を決し、さらに北の金堤も決した。並河の郡邑である済寧・単州・虞城・碭山・金郷・魚台・豊沛・定陶・楚丘・武城から曹州・東明・鉅野・鄆城・嘉祥・汶上・任城等処までみな水患に見舞われ、民は老弱が水に沈み壮者は四方に流離し、水勢は北は安山に及び会通運河に流入して済南・河間まで延び、両漕司の塩場を壊しかねず国計に甚大な影響を及ぼした。省臣がこれを奏聞し朝廷はこれを憂い、使を遣わして体量させるとともに大臣に治河の方略を求めさせた。至正9年冬、トクトが再び丞相となり慨然として事功を志し、河決について議し帝に自ら任にあたることを請うと帝は嘉納した。群臣を集めて廷議したが人により言うところがまちまちで、ただ都漕運使の賈魯だけが治水を昌言した。魯はかつて山東道奉使宣撫の首領官として被水郡邑を巡行し修捍の成策を熟知しており、のちには都水使者として旨を奉じ河上に赴いて相視し、その状を図に描き、二策を進献した。一つは北堤を修築して横潰を制す策で功費が省ける案、もう一つは疏塞をあわせ行い河を挽いて東行させ故道を復す策で功費が甚大な案であった。この時再び二策をもってトクトに答え、トクトはその後策を是とし帝に薦めて大いに賛意を得た。至正11年(1351年)4月4日、詔により中外に命じ魯を工部尚書・総河治防使とし、秩を二品に進め銀印を授け、汴梁・大名等13路の民15万人、廬州等戍の18翼の軍2万人を発してこの役に従事させ、大小軍民はみな節度に従い便宜に興繕させた。同月22日鳩工、7月疏鑿成る、8月決水して故河に入れ、9月舟楫が通行し、11月には水土の工が完了、諸埽・諸堤が完成し河は故道を復し、南は淮に匯まりまた東は海に入った。帝は貴臣を遣わして河伯を報祭させ、魯を召し帰京させて論功し栄禄大夫・集賢大学士に超拝し、宣力した諸臣にも遷賞に差をつけ、丞相トクトには世襲ダルハンの号を賜り、特に翰林学士承旨の欧陽玄に命じて河平碑文を製させ功績を旌した。玄は河平の碑を作った後、さらに司馬遷・班固の『河渠書』『溝洫志』が治水の道を載せるのみでその方法を言わないため後世斯事に任ずる者に考えるよすががないとし、魯に方略を訪ね過客に問い吏牘を質して『至正河防記』を作り、後世の河患に罹る者がこれによって求められるようにしようとした。
  • その言に曰く、治河は一つであるが疏・濬・塞の三つの働きがある。河の流れを釃(分流)し因って導くのを疏といい、河の淤を去り因って深くするのを濬といい、河の暴を抑え因って扼するのを塞という。疏濬にはさらに生地・故道・河身・減水河の四種がある。生地には直と紆があり、直に因って鑿てば故道に就ける。故道には高と卑があり、高きを平して卑に趨かせ、高卑相応じれば高きは壅がず卑きは瀦らない。壅ずれば潰を生じ瀦れば堙を生ずるのを慮ってのことである。河身は水の通行に幅の広狭があり、狭ければ水を受けにくく水はますます猛るため計って闢き、広ければ岸が崩れやすいため計って禦する。減水河は水が放曠すればその狂を制し、水が隳突すればその怒を殺ぐ。治堤も一つだが剏築・修築・補築の名があり、刺水堤・截河堤・護岸堤・縷水堤・石船堤がある。治埽も一つだが岸埽・水埽があり、龍尾・闌頭・馬頭等の埽がある。その埽台や推卷・牽制・薶掛の法には土・石・鉄・草・木・杙・絙を用いる方がある。塞河も一つだが缺口・豁口・龍口があり、缺口はすでに川となったもの、豁口はもと水に豁かれたもので水が退けば口は堤より低くなり水が漲れば口から溢れる、龍口は水が集まり新河から故道に入る潨(合流点)である。このほかは書きつくせないので工程の次第に従ってその下に述べる。
  • 故道を濬すること深広不等、通長280里154歩余、工事は白茅より始まり、次いで黄陵岡から南白茅まで生地10里を闢き、初め幅180歩・深さ2丈2尺、以下は幅100歩に停め、高下不等で相い折じ深さ2丈で泉に及ぶ(停・折とは古算法により此を推し彼を知り勢の低昂を相い凖じて折し匀停を取ることをいう)。南白茅から劉荘村まで故道に接続する10里は通折墾幅80歩・深さ9尺。劉荘から専固まで102里280歩は通折停幅60歩・深さ5尺。専固から黄固まで生地8里を墾く面幅100歩・底幅90歩・高下相い折じ深さ1丈5尺。黄固から哈只口まで51里80歩は相い折じ停幅墾60歩・深さ5尺。さらに凹里減水河を通長98里154歩浚した。凹里村缺河口の生地は長さ3里40歩・面幅60歩・底幅40歩・深さ1丈4尺。凹里の生地から下の旧河身は張賛店まで長さ82里54歩、上36里は幅20歩・深さ5尺墾き、中35里は幅28歩・深さ5尺墾き、下10里240歩は幅26歩・深さ5尺墾いた。張賛店から楊青村まで故道に接続する生地13里60歩は面幅60歩・底幅40歩・深さ1丈4尺。専固缺口を塞ぐには堤を三重修め、あわせて凹里減水河南岸の豁口(通長20里317歩)を補築した。創築した河口前第一重の西堤は南北長331歩・幅25歩・底幅33歩、樁橛を立て土牛・草葦の雑梢を実らせ高さ1丈3尺、堤前に龍尾大埽(大樹を伐りその梢に連ね堤防に繋ぎ水に随って上下させ岸浪の嚙みを破るもの)を置いた。第二重の正堤とその両端の旧堤の補修(通長11里300歩)、缺口の正堤(長さ4里)は両堤が接続し旧堤に樁を置いて堵閉し河身(長さ145歩)は土牛・草葦・梢土を交えて修築し底幅30歩・修高2丈とした。岸上の土工を修築した箇所は長さ3里215歩余、高広不等で通高1丈5尺。旧堤の補築は長さ7里300歩、表裏を倍薄し10歩・卑さを6尺増して高さ1丈とした。第三重の東後堤とこれに接続する旧堤(高広不等、通長8里)を修築し、凹里減水河南岸の豁口4処(樁木・草土を交え長さ47歩)を補築した。ここに黄陵の全河水中および岸上の堤(長さ36里130余歩)を塞ぎ、大堤で水を刺す(さえぎる)ものを二つ修めて長さ14里70歩、さらにその西に大堤で水を刺すものを一つ作り長さ12里130歩、内に創築した岸上土堤(李八宅西堤から東南の旧河岸まで長さ10里150歩、顛幅4歩・趾幅は3倍・高さ1丈5尺)と、旧河岸から入水堤まで(長さ430歩、趾幅30歩、顛は6分の1を殺す)を仍せて築き、入水の両岸の埽堤を並行して築いた。西の埽は夏(西夏)人の水工が霊武から徴発され、東の埽は漢人の水工が近畿から徴発された。その法は竹絡に小石を実らせ、埽ごとに不等の蒲葦の綿腰索(径1寸ほど)を鋪き広さ1、20歩・長さ2、30歩とし、さらに曵埽索綯(径3寸あるいは4寸・長さ200余尺)を横に鋪いて相い間わせ、さらに竹葦麻檾の大繂(長さ300尺)を管心索として綿腰索の端に繋ぎ、その上に草を数千束から多い時は万余束、匀に厚く布いて綿腰索の上に鋪き、橐に納めて丁夫数千人が足で踏み固め推卷し、やや高くなれば水工2人がその上に立って号令し衆声で力を挙げ、大小の推梯を用いて推卷し埽を成す。高下長短は不等で大きいものは高さ2丈、小さいものは1丈余。さらに大索4、5を腰索とし河濱に転じ運び、健丁を選んで管心索を操らせ埽台に沿って立て踏み、あるいは台中の鉄猫・大橛に掛けて漸次これを縋り下ろし水中に沈め、埽の後方は地を掘って渠とし管心索を渠中に陥れ散草で厚く覆い土で築き、さらに土牛・雑草・小埽・梢土を多寡厚薄・先後に随宜して修畳して埽台とし、牽制・上下の緝密堅壮・互いに掎角(連携)することを務め、埽が動揺しないようにし、日力が足りなければ火を継いで行い、積累し終わればまた前法を施して埽を卷き先に下した埽を厭(押さえ)し、水の浅深を量って埽の厚薄を制し、これを累ねること多くて4埽で止め、両埽の間に竹絡(高さ2丈あるいは3丈、囲4丈5尺)を置いて小石を実らせ、土牛が満ちれば竹䌫で繋ぎ、その両旁は並埽で大樁を密に下し、竹絡の上の大竹の腰索を樁上に繋ぎ、東西両埽とその中の竹絡の上には草土等の物で埽台(約長50歩あるいは100歩)を築いた。再び埽を下すには竹索あるいは麻索(長さ800尺あるいは500尺)を1、2、その他の管心索の間に雑え厠て、埽が水に入った後は残りの管心索を前のように薶掛し、随って管心の長索を5、70歩の外に置き、あるいは鉄猫あるいは大樁に曵いて繋ぎ、通じて管束すること数日、下した埽をさらに草土等の物で通じて堤を修め、さらに龍尾大埽を護堤の大樁に密に掛けて水勢を分折させた。その堤は長さ270歩、北幅42歩・中幅55歩・南幅42歩、顛から趾まで通高3丈8尺。截河の大堤は高広不等で長さ19里177歩、広陵の北岸にあるものは長さ10里41歩、岸上の土堤(西北は東西の故堤に起こり東南は河口に至る、長さ7里97歩、顛幅6歩・趾はその倍にさらに2歩を加え、高さ1丈5尺)を築き、入水に接続して土牛・小埽・梢草雑土を多寡厚薄に随宜して修畳し、竹絡を下して大樁を安じ龍尾埽を繋ぐことは前の両堤の法に同じいが、埽台を修畳するに白闌小石を増用し、埽の上および前を洊修(重ねて修める)した埽堤一(長さ100余歩、直に龍口稍北に抵る)は闌頭三埽を並行し、埽の大堤の広さは刺水の二堤とは異なり、通じて前列の四埽の間に竹絡を挟んで一大堤(長さ280歩、北幅110歩、顛から水面まで高さ1丈5尺、水面から沢腹まで高さ2丈5尺、通高3丈5尺、中流幅80歩、顛から水面まで高さ1丈5尺、水面から沢腹まで高さ5丈5尺、通高7丈)を成した。あわせて縷水横堤(一つは東は北の截河大堤に起こり西は西刺水大堤に抵り、もう一つは東は中の刺水大堤に起こり西は西刺水大堤に底る、通長2里42歩、顛幅4歩・趾は3倍、高さ1丈2尺)を創築し、黄陵南岸(長さ9里160歩、内に創築した岸上堤は東北の新補白茅故堤に起こり西南は旧河口に至る、高広不等、長さ8里250歩)を修めた。ここに至って水中に石船大堤を作った。8月29日乙巳、故河の流れを道(みちび)くにあたり、先に修めた北岸の西・中刺水堤および截河堤の三堤はなお水を約すには短く力が足りないと恐れられた。決河の勢いは大きく南北幅400余歩、中流の深さ3丈余、しかも秋漲で水量が多く故河の10分の8を占め、両河が争流し故河口に近く水が岸を刷って北行し洄漩湍激して下埽しがたく、しかも埽の進みが遅れれば水がすべて決河に湧き入り故河を淤して前功が隳れる恐れがあった。魯は精思の末、水を故河に障入する方法を編み出し、9月7日癸丑、逆流の中に大船27艘を並べ、前後を大桅あるいは長樁で連ね、大麻索・竹絙で絞縳して方舟とし、さらに大麻索・竹絙で船身を繳繞し牢固にし、鉄猫を上流で水中に硾し、また竹絙(長さ7、800尺)を両岸の大橛に繋ぎ、絙ごとに2、3舟を硾して動かぬようにし、船腹には散草を鋪き小石を満たし合子板で釘じ、さらに埽を密に合子板の上に布くこと2、3重、大麻索で縳り、さらに横木三道を頭桅に急ぎ縳り、みな索で維ぎ、竹編の笆に草石を夾んで桅前に立て(長さ丈余、名は水簾桅)、木で榰拄して簾が偃仆しないようにした。しかる後に水工の便捷な者を選び、船ごとに2人が斧鑿を執って船首尾に立ち、岸上で搥鼓を号として鼓鳴一時に斉しく鑿ち、須臾にして舟穴から水が入り舟が沈み、決河の水を怒りごと遏め、故河水は暴増した。そこで重ねて水簾を樹て、後にはまた小埽・土牛・白闌・長梢・雑草・土等を随宜に填垜して継いだ。石船が実地に到れば水の基址が出て漸く高くなり、また大埽を卷いてこれを圧した。前船の勢いがおおよそ定まると、前法を用いて残りの船を沈め後功を竟えた。昏暁百刻、役夫を分番して甚だ労し、少しも間断なかった。船堤の後には草埽三道を並び挙げ、中に竹絡を置いて石を盛り、あわせて埽に樁を置き繋ぎ絙し四埽と絡は北截水堤を修めた法と一律だが、中流の水深数丈を用いるため物用の多さ・施工の大きさが他堤の数倍に及んだ。船堤は北岸から僅か4、50歩、勢いは東河に迫り流れは天から降るごとく峻しく、深浅は測りがたかった。ここでまず大埽(高さ約2丈のもの、あるいは4、5)を下し始めて水面から出し、河口まで修め上る1、20歩は用物が特に困難で、龍口が薄く喧豗猛疾で勢いは埽基を撼し裂けて欹傾し、俄かに故所を遠く超え、観る者は股が慄え衆議が沸き難合と見なした。しかし勢いはもはや已めがたく、魯は神色動かず機解して捷出し、官吏工徒十余万人が日ごとに奨諭され辞旨が懇至であったため、衆はみな感激して功に赴いた。11月11日丁巳、龍口はついに合し、決河は流れを絶ち故道が再び通じた。さらに堤前に闌頭埽を各一道通じて卷き、多いところは3あるいは4、前埽は水面に出て管心大索を繋ぎ後の攔頭埽の後に硾し、後埽の管心大索もまた小埽に繋ぎ前の攔頭埽の前に硾し、前後で先に覊縻してその勢いを錮し、さらに交わる索の上や両埽の間に小石・白闌・土牛・草土を相半ばに厚薄多寡し勢いに応じて措置した。埽堤の後には南岸から重ねて一堤を修め既に閉じた龍口に抵り長さ270歩とした。船堤四道が完成すると、農家の場圃の具である轆軸というものを用い、石を穴に穿ち木を立てて櫛のように比べ、前の埽の旁に1歩ごとに1轆軸を置き横木でその後を貫き、また石に径2寸余の穴を穿って麻索を通し横木に繋ぎ密に龍尾大埽を掛けて夏秋の潦水や冬春の凌澌が岸に力を肆にできないようにした。この堤は北岸の截河大堤に接続し長さ270歩・南幅120歩、顛から水面まで高さ1丈7尺、水面から沢腹まで高さ2丈2尺、中流幅80歩、顛から水面まで高さ1丈5尺、水面から沢腹まで高さ5丈5尺、通高7丈。さらに南岸の護堤埽一道(通長130歩)を治め、南岸の護岸馬頭埽三道(通長95歩)を修めた。北岸の隄防(高広不等、通長254里71歩)も修築し、白茅河口から板城まで補築した旧堤は長さ25里285歩、曹州板城から英賢村等処までは高広不等で長さ133里200歩、梢岡から碭山県まで旧堤の倍以上に増した堤は長さ85里20歩、帰徳府哈只口から徐州路まで300余里の間の缺口107か所を修完(高広不等、積修計3里256歩)、伊実拉店の縷水月堤(高広不等、長さ6里30歩)を修めた。用いた物の総計は、大樁木2万7千、榆柳の雑梢66万6千(帯梢連根株のもの3,600を含む)、藁秸蒲葦の雑草733万5千余束、竹竿62万5千、葦席17万2千、小石2千艘分、大小の縄索5万7千、沈めた大船120、鉄纜32、鉄猫334、竹篾15万斤余、硾石3千塊、鉄鑽1万4200余、大釘3万3232、その他木龍・蚕椽木・麦稭・扶樁・鉄义・鉄吊枝・麻搭・火鈎・汲水貯水等の器具もすべて定数があった。官吏の俸給・軍民の衣糧・工銭・医薬・祭祀・賑恤・駅置の馬乗、および竹木の運搬・沈船・渡船・下樁等の工、鉄石竹木・縄索等の匠傭の資、あわせて和買した民地の代価等の雑物の費用を通計すると中統鈔184万5636錠余に及んだ。
  • 魯はかつて語った。水工の功は土工の功に比べて難しく、中流の功は河濱の功に比べて難しく、決河口の功はさらに中流に比べて難しく、北岸の功は南岸に比べて難しい。物を用いる効は、草はいかにも柔らかいがよく水に狎れ、水がこれに漬みて泥を生じ、泥と草が力を合わせれば碇(いかり)のように重くなる。維持・夾輔する纜索の功が実に大きい、と。魯が河事に熟知していたゆえに、その功がこのように成ったのである。欧陽玄は言う、この役は朝廷が重い費用を惜しまず、高爵を吝しまず民のために害を辟けたものである。トクトは上意をよく体し焦労を憚らず浮議を恤みず国のために民を拯った。魯はその心思智計の巧みを竭くし、その精神・膽気の壮を乗じ、劬瘁を惜しまず譏評を畏れず、君相の知人の明に報いた。まさにこれをことごとく書して史官がこれを考証できるようにすべきだ、と。これより先、庚寅の歳、河南北に童謡があり「石人一隻眼、挑動黄河天下反」と唱えられ、魯が河を治めるに及んで果たして黄陵岡で石人の一つ目を得、汝潁の妖冦が時に乗じて起こった。議者はしばしば天下の乱はみな賈魯の治河の役が民を労し衆を動かしたことに由ると言うが、元が亡んだ真の理由は上下が因循し宴安の習に狃れ紀綱が廃弛し風俗が偷薄したことにあり、その乱を致す道は一朝一夕の故ではなく由来久しいのであって、これを察せずただこの役に咎を帰すのは成敗のみをもって事を論ずるもので通論ではない。もし賈魯がこの役を興さなかったとしても、天下の乱がこれによって起こらなかったと言えるだろうか。今、玄が記した所を具に録し、後世の者が詳らかにできるようにする。

蜀堰(都江堰)

  • 江水は蜀の西南の徼外に発し東の岷山に至り禹がこれを導いた。秦の昭王の時、蜀太守の李冰が離堆を鑿ち江を分けて川蜀を灌漑し、民はその恵みを受けて千数百年に及んだが、通過する箇所が衝薄され蕩囓されるため大いに民の患いとなった。有司は故事により毎年堤防を治め、隄防の総数は133か所、役す兵民は多いところで万余人、少ないところで千人、それ以下でも数百人を下らず、役は凡そ70日、70日に及ばずとも治まれば休役できず、役に就かぬ者は日に3緡の庸銭を出したため、富める者は貲(財)に、貧しい者は力に苦しみ上下ともに病んだ。その費用は年に7万緡を下らず、おおむね民から出るものが9割で吏の手に蔵められその利益を得るものが、費やす分に見合わなかった。元統2年(1334年)、四川粛政廉訪司事の吉達布が巡行してつぶさに視察し、要害の地32か所を得て、他はすべて廃し、灌州判官の張弘に「もし石で甃えれば毎年の役を廃し民力を蘇らせられよう」と語ったところ、弘は「公の慮がここに及んだのは、生民の福・国家の幸い・万世の利である」と応じ、弘は自ら私費を出して試みに小堰を作り、堰が完成すると水が暴漲したが堰は動じなかった。そこで文書を具え、行省および蒙古軍七翼の長・郡県の守宰、下は郷里の老に至るまで各々利害を陳べさせ、みな便であるとし、さらに李冰祠に祷って占うと吉であったため工を徴し徒を発し、あわせて至元元年(原文のまま、後至元元年、1335年)11月朔日に都江堰、すなわち禹が鑿った処であり分水の源である場所で事を興した。鹽井関がその西北を限り、水西関がその西南に拠り、江の南北はみな東に流れる。かつては江氷(李冰)が沬水の害を辟けるため鑿ち、中央には都江堰、やや東には大小釣魚台、また東には二江に跨って石門を設け北江の水を節し、また東には利民台、台の東南には侍郎楊柳二堰があり、その水は離堆から分流して南江に入る。南江は東の鹿角に至り、また東の金馬口に至り、また東の大安橋を経て成都に入る。俗に太皂江といい北江の正源である。北江はやや東に虎頭山を経て門鶏台があり、台には水があれば尺で画す。凡そ11水のうち9まで来れば民は喜び、過ぎれば憂い、没すれば則り困る。また「深淘灘、高作堰」の6字を書きその傍らに治水の法を記す、いずれも李冰が為したものである。また東は離堆、また東は凌虚・歩雲の二橋を過ぎ、また東は三石洞に至り分かれて二渠となる。その一は上馬騎より東流し郫を経て成都に入る、古くは内江といい今の府江である。その一は三石洞より北流し将軍橋を経て、また北の四名洞を経て折れて東流し新繁を経て成都に入る、古くは外江といい、この二江は李冰が穿ったものである。南江は利民台より支流が東南に出て万工堰となり、また東は駱駝口、また東は碓口となり青城を繞って東に流れ、鹿角の北涯には渠があり馬壩といい東流して成都に至り南江に入る。渠は東行すること20余里で水がその南涯49か所を決し、毎年疲弊した民力でこれを塞いできたが、その北涯から二渠を鑿って楊柳渠と合わせ東行すること数十里で再び馬壩渠と会し渠が成れば自ずと流れが安らかになった。金馬口の西より二渠を鑿って金馬渠と合わせ東南は新津江に入り、藍淀・黄水・千金・白水・新興から三利十二堰を罷めた。北江の三石洞の江は外応・顔上・五斗の諸堰に外応じ、顔上の水はみな東北に流れ外江に入り、五斗の水は南に馬壩渠に入り、みな内江の支流である。外江は東は崇寧に至りやはり万工堰となり、その支流は北から東に三十六洞を経て清白堰を経て彭・漢の間に東入するが、清白堰の水はその南涯を延袤3里余潰ったため、有司は潰れたのを機に堰とすると堰がまた壊れ、その北涯の旧渠を疏して直流を東に流し、堰と三十六洞の役を罷めた。嘉定の青神には鴻化という堰があり、その長吏が期に応じれば功を成した。成都の九里堤、崇寧の万工堰、彭の堋口・豊潤・千江・石洞・済民・羅江・馬脚の諸堤の工事は未だ施工されておらず、長吏を召し勉諭して農閑に行わせることとした。諸堰のうち都江および利民台の役が最も大きく、侍郎楊柳・外応顔上五斗がこれに次ぎ、鹿角・万工・駱駝・碓口・三利がまたこれに次ぐ。都江は大江の中流にあるため鉄1万6千斤で大亀を鋳造し鉄柱を貫いて源を鎮め、その上で諸堰をすべて石で甃え鉄を範して中を関ぬき、桐実の油を石灰に和えて麻絲を雑えて搗き、罅漏を苴(ふさ)ぎ、岸が崩れやすい所は石を密に築いて護り、その上に楊柳を植え旁らに蔓荊を種え櫛比鱗次させて固めとし、その数は数百万を計るに及んだ。至る所で旧渠を疏して流れを導くか、新渠を鑿ってその勢いを殺ぐか、水の会する所には石門を作って時を以て啓閉し洩蓄させて民力を節し民利に資し、智力の及ぶ限りをすべて尽くした。当初、郡県と兵官が共に都江の政を掌っていたが、延祐7年、兵官が独り任にあたることを奏請し民がその役に堪えなかったため、ここに至って再び合わせられた。常年、水の利を得るのはわずか数か月に過ぎず堰がすぐ壊れていたが、ここに至って渠に沿って碓・磑(水車・石臼)や紡績の場所が千万を計るまでになり四時流転して窮まりなかった。工事の初め、都江の水は深広で測るべくもなかったが忽ち大洲がその西南に湧出し方数里ほどとなり、人がこの間で作業できるようになり、山に入って石を伐ると崩れた石がすでに満ち随って取っても尽きなかった。蜀はもと雨が多いが、この役の始めから竣工まで雨雪がなかったので力を省いて功が倍したのは、天の助けがあったかのようであった。5か月にわたる工事の末に完成を告げ、吉達布は監察御史として省台に召され、その功を上奏、詔により掲徯斯に文を製させ碑を立てて旌した。この役は石工・金工がいずれも700人、木工250人、役徒3,900人(うち蒙古軍が2,000を占めた)、糧は石で計り千余、石の材は山から取る者が百万余、石灰は斤で計り6万余、油はその半分、鉄は6万5千斤、麻は5千斤、工の直と物の価を緡で撮ると4万9千余に及んだ。みな民の庸から出たが、官の積みに二十万一千八百緡が残り、灌守にこれを民に貸させ毎年その利息を取って祭祀および淘灘・修堰の費用に備え、灌の兵民の常徭役を蠲じてその力を専ら堰事に注がせた。

涇渠(郑国渠)

  • 涇渠は秦の時、韓が水工の鄭国を遣わして秦に涇水を鑿らせ仲山の西の瓠口から渠を並北山に東注し洛に至る300余里で田を灌漑させることを説いた。これは実は秦の力を疲弊させて東伐できなくさせる韓の謀であったが、これが露見し秦は鄭国を殺そうとしたところ、鄭国は「臣は韓のために数年の命を延ばしましたが、秦のためには万世の利を建てました」と述べ、秦はこれを是とし、ついにこれを完成させ鄭渠と号した。漢の時には白公という者が渠を穿ち涇水を引いて谷口から起こり櫟陽に入れ渭に注ぐことを奏し、袤200里で田4,500余頃を灌漑し、白渠と名づけられた。歴代これによったが宋代には水の衝嚙で旧跡を失い、熙寧年間に詔して常平息銭を賜い民の興作を助け、仲山の傍らから石渠を開鑿し高きより水を瀉り、豊利渠と名づけられた。元の至元年間、屯田府を立てて督治させ、大徳8年(1304年)涇水が暴漲し堰を毀ち渠を塞いだため陝西行省は屯田府総管のグアルジバヤンテムルおよび涇陽尹の王琚に命じて疏導させた。涇陽・高陵・三原・櫟陽の用水人戸および渭南・櫟陽・涇陽の三屯の人夫あわせて3,000余人を用い、水を通して流れを旧に戻した。その制は荆を編んで囤とし石を貯め、さらに草・土で堰とし、年々葺理して廃止しなかった。至元元年(原文のまま。後至元元年か)、王琚は西台御史となり豊利渠の上にさらに石渠を51丈開き幅1丈・深さ5尺、積15万3千工を計り一方一尺を1工とし、延祐元年(1314年)に起工して5年に渠が完成、同年秋に堰を新口に改めた。泰定年間、論者は石渠が年久しく水流が漸く穿たれ岸を逾えるほど高くなったと言い、至正3年(1343年)御史の宋秉亮がその堰を相視し、渠が積年淤土を坎(掘)って岸に積み重ね極めて高く崇くなり土を上に送りにくいため、岸の高い処に鹿巷を開通して夫の通行を便ならしめるべきと請い、廷議はこれを允可した。4年、屯田同知のヤブフと涇尹の李克忠が丁夫を発して鹿巷84か所を開き、土壘450余歩を削平した。至正20年、陝西行省左丞相のテリテムルは都事の楊欽を遣わして修治させ、農田4万5千余頃を灌漑した。

金口河

  • 至正2年(1342年)正月、中書参議のボロテムルと都水の傅佐は、通州の南・高麗荘から西山の石峡・鉄板に至る古の金口を開き120余里で新河一道を創開し、深さ5丈・幅20丈とし、西山の金口の水を放って東流させ高麗荘の北で御河に合流させ海運を引いて大都城内に輸納すべきと建言した。当時トクトが中書右丞相でありその言を奏して実行させたが、廷臣の多くは不可であると論じ、左丞の許有壬がとりわけ強く論じた。トクトは群議を排して受け入れず必行を務めたため、有壬はその利害を条陳した。おおむね、大徳2年(1298年)に渾河の水が発して民害となった際、大都路都水監が金口の下に閘板を閉じたこと、5年間で渾河の水勢が浩大となり郭太史(郭守敬)が薛二村・南北二城の水没を恐れ金口以上の河身を砂石・雑土で堵閉させたこと、至順元年(1330年)、行都水監の郭道夀が金口引水を通州まで通せば利は無窮であると言上し工部官と河道提挙司・大都路および合属官員・耆老らが相視し議した際、水は二城の中間を経て窒礙が生じること、盧溝河は橋から合流処まで来かつて漁舟の上下すら無くこれは行船不可能な明証であること、通州は京城から44里だが盧溝はわずか20里なので当時なぜ盧溝に馬頭を立てなかったのか近便であるはずなのに40里外の通州で行うのは道理に合わないこと、また西山の水勢は高峻で金代には都城の北にあり郊野に流入したため衝決しても害は軽かったが今は都城の西南にあり昔とは事情が異なり、この水は性が湍急であり夏秋の霖潦を加えればその虞りは必ずしも無いとは言えず、宗廟社稷の在する所であれば万一の僥倖に頼るべきではないこと、たとえ一時成功しても永久に衝決の患いがないとは保証できないこと、金代にはこの河は必ずしも通行していたわけではなく、今ある河道の遺跡もいったん興ってまた廃されたものかもしれないこと、地形の高下が不同であり閘を作らなければ水が流れて浅澁を招き、閘で節すれば沙泥が渾濁してかならず淤塞し毎年毎月人を専任して挑洗せねばならず窮まりないこと、また郭太史が初めて通恵河を作った時になぜこの水を用いず遠く白浮の水を取って都城に引き閘壩の用に供したのかといえば、白浮の水は澄清でこの水は渾濁で使えなかったからであること、これらを理由として述べた。この議が起こると伝聞した者はみな不可とし、大功を成す者は衆に謀らないというなら人言は聴くに値せず、これは商鞅・王安石の法にほかならず当今にこの議があってはならないと述べたが、上奏された後も丞相は結局従わず、正月に興工して4月に完工、閘を起こして金口の水を放ったが流れは湍急で勢いが激しく沙泥が壅塞して船が通れず、しかも開挑の際には民の廬舎・墳塋を毀ち夫丁の死傷も甚だ多く、費用も巨額に及びながら結局無功に終わった。続いて御史がこれを建言したボロテムルと傅佐を糾劾し、両人はともに伏誅した。今その事をここに附載し、妄りに水利を言う者への戒めとする。

元卷卷六十六