繹史呂不韋、秦の相となる(下)(呂不韋相秦(下))

前巻(呂不韋相秦・上)に続き、『呂氏春秋』諸篇の要旨と、呂不韋・嫪毐の政変、その最期を記す。

聴言篇

  • (呂氏春秋より)人の言葉を聞く際は善悪を見極めねば大乱を招くとし、世主が快楽を貪り民を苦しめる様を批判する。
  • (呂氏春秋より)人には習うところがあってはじめて言を正しく聴けるとし、造父や蠭門が幼少から一芸に習熟した例を挙げる。

謹聴篇

  • (呂氏春秋より)禹が「一沐三たび髪を握り、一食三たび起つ」ほど人材登用に努めた故事を引き、人主は謙虚に他者の意見を聞くべきだと説く。
  • (呂氏春秋より)賢者を得ることの難しさと、太公望が渭水で釣りをして文王に見出された故事を引く。

務本篇

  • (呂氏春秋より)三王の佐(賢臣)は公のために働いたからこそ名も実も栄えたが、俗主の佐は私利のみを求めるため、かえって名も実も危うくなると説く。

諭大篇

  • (呂氏春秋より)舜・禹・湯・武・五伯・孔子・墨子はいずれも当初の理想(旗・帝・継禹など)を完全には達成できなかったが、それでもなお大きな功業を成し遂げたとし、「大義の不成すら既に成あり」と説く。

首時篇

  • (呂氏春秋より)聖人は時に応じて動くとし、文王・武王が長年の忍耐の末に時機を得て功業を成した例を挙げる。「水凍りて固ければ后稷も種を蒔かず」と、時を待つことの重要性を説く。

察今篇

  • (呂氏春秋より)先王の法をそのまま用いるべきでないとし、時勢が移れば法も変えるべきだ(世異則事異、事異則備変)と説く。
  • (呂氏春秋より)「刻舟求剣」(舟に印をつけて剣を捜す愚)や「揠苗助長」に類する寓話(荊人が澭水を渡ろうとして溺れる話)で、旧法への固執を戒める。

審分篇

  • (呂氏春秋より)人主は名分を審らかにすべきとし、臣下に権限を分与しすぎれば私が生じるとする。名実が一致しなければ混乱が生じると説く。

君守篇

  • (呂氏春秋より)道を得た君主は静を守り、無知無為でありながら衆知・衆能を用いるとする。「作る者は憂え、因る者は平らか」との言葉で、君主の無為の徳を説く。

勿躬篇

  • (呂氏春秋より)君主が臣下の職分にまで手を出すべきでないとし、大橈・容成・儀狄など古の専門技術者二十官の例を挙げ、聖王は自らその技を持たずとも、これを使いこなすことで天下を治めたと説く。

知度篇

  • (呂氏春秋より)明君は万事を自ら見るのではなく、百官の要を知ることで国を治めるとし、名分を正して権限を専らにすることの重要性を説く。

慎勢篇

  • (呂氏春秋より)勢の重要性を説き、小を以て大を治めるのは吉、大を以て小を治めるのは滅ぶとする。封建の制において、王者に近いほど封は小さく、遠いほど封を大きくするという原則を説く。

不二篇

  • (呂氏春秋より)老耼は柔を貴び、孔子は仁を貴び、墨翟は廉を貴ぶなど、諸子が異なる価値を掲げることを列挙し、国を治めるには一つの規範に統一すべきだと説く。

具備篇

  • (呂氏春秋より)羿や蠭蒙のような名手でも、弓に弦がなければ的に当てられないとし、功名を立てるにも必ず「具(条件)」が要ると説く。湯や武王も当初は不遇であったことを例に挙げる。

用民篇

  • (呂氏春秋より)民を用いるには義を第一とし、賞罰はその次とする。闔廬や勾践が民の心を掴んで少数の兵で大功を成した例を挙げる。

為欲篇

  • (呂氏春秋より)民に欲がなければ上に立つ者も民を用いることができないとし、欲を正しく導くことで民の力を最大限に引き出せると説く。

恃君篇

  • (呂氏春秋より)人には本来、爪牙や毛皮のような自衛の手段がないため、群れをなして君を立てたと説き、君臣の義の起源を論じる。太古に君のなかった辺境の民族の様子(麋鹿禽獣のごとく強者が弱者を虐げる)を対比として挙げる。

観表篇

  • (呂氏春秋より)人の心は隠れて見えにくいため、聖人は徴表(兆し)を観察して先を知るとし、名馬の相を見る名人たちの故事を引く。

別類篇

  • (呂氏春秋より)「知らずして知ると思う」ことの害を説き、物事には類似していても本質が異なるものが多いとする寓話(毒草の合わせ方、剣の合金の巧拙など)を列挙する。

分職篇

  • (呂氏春秋より)先王は「他人の物を自分の物のように用いる」ことに長け、伯楽や造父を用いた武王が天下を取った例を挙げ、これを「君道に通ず」と評する。

上農篇

  • (呂氏春秋より)古の聖王が農業を重んじた理由は、単なる地の利だけでなく、民の心を質朴にし、国を安定させるためであったと説く。農業を離れて末業(商業)に走ることの弊害を論じる。

任地篇

  • (呂氏春秋より)后稷の言葉を借り、土地の性質(湿と乾、肥と痩)を見極めて耕作する具体的な農法(五耕五耨、畝の広さなど)を説く。

弁土篇

  • (呂氏春秋より)耕作における「三盗」(苗同士の競合による損失)を避ける方法など、より詳細な農法・田畑の管理法を説く。

審時篇

  • (呂氏春秋より)禾・黍・稲・麻・菽・麦の各作物について、時季を得た場合と失った場合の生育の違いを詳細に説き、「時を得た穀物は虫害・蝗害を受けにくい」と結論づける。

甘羅の弁舌(戦国策より)

  • 呂不韋が張唐を燕の相として送ろうとするが、張唐が趙を通ることを恐れて拒む。12歳の甘羅が自ら趙王を説き、河間の地を割譲させることに成功し、上卿に取り立てられる。

嫪毐の乱(史記より)

  • 太后(秦王政の母)と密通していた呂不韋は、発覚を恐れて大陰人・嫪毐を偽って宦官とし太后に近づけ、太后は嫪毐を深く寵愛して長信侯に封じる。
  • 嫪毐は権勢を恣にし、太后との間に子をもうけるが、始皇九年(前238年)に乱を起こし、討伐されて三族を誅される。
  • 呂不韋も嫪毐の一件に連座して相国を免ぜられ、河南に退けられる。のち蜀への左遷を命じられると自ら鴆毒を仰いで死す。

茅焦の諫言(史記・説苑より)

  • 太后を雍に幽閉した始皇に対し、諫死を覚悟した斉の茅焦が、車裂きの喩え話で始皇の非を説き、始皇は説得を受け入れて太后を咸陽に迎え戻す。

太后の崩御

  • 始皇十九年、太后(帝太后)が薨じ、荘襄王と合葬される。