繹史魏の信陵君の賢(孔順)(魏信陵君之賢(孔順相魏附))
- 履歴: 魏公子無忌(信陵君)。魏昭王の少子、安釐王の異母弟。仁にして士に下る人柄で食客三千人を養い、諸侯は魏を侵さなかった。窃符救趙の後は趙に十年留まり、のち魏に戻って五国連合軍を率い秦を破ったが、秦の反間策により失意のうちに没した。子高(孔順)の魏相就任の逸話も併せて収める。
明敏の逸話と趙范痤事件
- (史記より)魏王と博打をしていた際、趙の侵入との誤報に動じず「趙王は狩猟をしているだけ」と見抜いた逸話(門客が趙の内情を探る網を持っていたことによる)。これにより魏王は信陵君の才を畏れ国政を任せなかった。
- 趙が「范痤(もと魏相)を殺せば土地を献じる」と持ちかけた際、范痤自ら「生きた范痤を交渉材料にする方が得」と説き、信陵君にも書を送って助命を求め、信陵君は魏王に説いて范痤を救った(戦国策には虞卿が趙側で同事件を仕掛けた経緯が詳述される)。
窃符救趙
- (史記より、既出「秦白起長平破趙」条と重複する内容)信陵君は如姫を通じて兵符を盗み、朱亥が晋鄙を椎殺して兵権を奪い、趙を救援した。趙孝成王は自ら郊外に出迎え、五城を封じようとしたが、信陵君は驕らぬよう客の諫言(唐雎の「徳を人に施したことは忘れるべし」との教え)を受け入れ、辞退の礼を尽くした。
- 毛公・薛公という隠れた賢者(博徒・売漿者に身を潜めていた)と親しく交わり、平原君に「妄人と交わる」と非難されたが、これを機に平原君の食客の多くが信陵君に付き従うようになった逸話。
魏への帰還と五国連合の勝利
- (史記より)信陵君は趙に十年留まっていたが、秦が魏を攻めた際、毛公・薛公の「魏を見捨てれば天下に顔向けできない」との説得で帰国、上将軍として五国の軍を率い秦軍を河外で破り、蒙驁を函谷関まで追撃した。その威勢は天下に轟き、諸侯の将が信陵君に兵法を献じ「魏公子兵法」と称された。
安陵君と縮高の義
- (戦国策より)信陵君が安陵の民縮高(管の守将の父)に管攻めへの協力を求めたが、縮高は「父が子を攻めるは道に反する」と拒否し、信陵君の再度の強要に対しても「国の憲(法)に背けぬ」として使者の前で自刎した。信陵君はこれを聞いて服を改め安陵に謝罪した。
讒言による失意と死
- (史記より)秦は晋鄙の旧客に金を与えて信陵君を讒言させ、「諸侯は魏公子ありと聞くのみで魏王ありと聞かず」との流言を広めた。魏王は次第にこれを信じ、信陵君を将軍職から外した。信陵君は病と称して朝せず、昼夜酒色に耽り、四年後に病没した。
孔順(子高)の魏相就任
- (孔叢子より)魏王は子順(孔子の後裔、孔穿の一族)を相に招き、子順は「治世の道を用いるならば粗食粗衣でも構わぬが、単に身柄を制し高禄を与えるだけなら一介の人物に過ぎぬ」と条件を述べて赴任した。
- 趙との外交(連和策)や、北狄との交易策(自国の余剰品と引き換えに夷狄の必需品を得て弱体化させる策)を献じた。
- 相となって寵臣を退け功臣を重んじたため誹謗を受けたが、「子産や孔子の先例でも当初は謗られ、政治が定着すれば謗りは止む」と動じなかった。
- 「無欲の士を臣にしたい」との魏王の問いに「無欲の士は伯夷・叔斉のように王すら制し得ぬ、欲ある者こそ用いられる」と答えた逸話。
- 九か月相を務めたが献策が用いられぬことを憂い、「用いられぬのは自らの言が当を得ぬためであり、禄を食むのみは尸位素餐」として辞職。魏王は謝罪して留任を求めたが、子順は病を理由に固辞し、「秦の天下併呑の勢いはもはや伊尹・呂望でも覆せぬ、二十年を出でずして天下は秦に帰すだろう」と山東諸国の行く末を予見して隠棲した。