繹史平原君、趙の相となる(公孫龍・魏牟)(平原君相趙(公孫龍・魏牟並附))

  • 履歴: 平原君趙勝。趙の公子で恵文王・孝成王の二代にわたり相を三度務め、東武城に封ぜられた。食客数千人を養い、孟嘗君・信陵君・春申君と並ぶ戦国四君の一人。弁者公孫龍・中山公子牟の逸話も併せて収める。

躄者の一笑と士の去就

  • (史記より)平原君邸の楼から美人が躄者(足の不自由な者)を笑ったため、躄者はその首を求めた。平原君は初め渋ったが、食客が「色を愛し士を賤しむと見做されれば士は去る」と諫めたため、美人を斬って謝罪し、以後客は再び集まった。
  • 田部吏趙奢が平原君家の脱税者九人を法により処刑した際、平原君は怒ったが、趙奢は「貴戚も法を奉じてこそ国が強まり富貴も保たれる」と説き、平原君はこれを賢として王に推挙、趙奢は国の租税を治めた。

邯鄲解囲後の駆け引き

  • (戦国策より)信陵君の援軍で秦の邯鄲包囲が解けた後、虞卿は平原君への加封を進言したが、公孫龍は「功なくして封を受ければ国人の批判を招く」と諫め、平原君は加封を辞退した。
  • 魏の合従要請を趙が拒んだ際、虞卿は「強弱の理から見て、魏の求めを拒むのは趙自身の不利」と平原君を諭した。

公孫龍と孔穿の論争(白馬非馬)

  • (孔叢子・公孫龍子より)平原君の客であった弁者公孫龍は「白馬は馬に非ず」の説(色の名と形の名は別概念であるとする名家の論理)を唱えた。孔子の子孫孔穿がこれを論破しようとしたが、公孫龍は「先生の言は矛盾する、私に説を捨てさせてから師事するのは筋が通らない」「孔子も『楚人が弓を失えば楚人が得る』を『人が失えば人が得る』と広く解した先例がある」と反論し、孔穿は答えられなかった。
  • 後日、子高(孔穿)は改めて「事物の名と色の関係は、詩・礼の用例に照らせば白馬という複合名は正当に成り立つ」と理を説き、平原君は理においては子高が優れ、弁舌においては公孫龍が優れると評した。
  • 公孫龍子の原文(跡府・白馬論・通変論・堅白論・指物論・名実論)の骨子も併せて記される。いずれも「名(言葉)と実(対象)の対応関係」を厳密に論じる名家特有の論理学的議論で、白馬非馬論を中心に、堅白石が同時に知覚し得ないことを論じる堅白論などが展開される。
  • 趙秦の同盟履行を巡り、公孫龍が「約束の趣旨」を論理的に解釈して秦を難詰した逸話、孔穿・公孫龍が「三つの耳」の詭弁を巡り論争し、平原君が「理は孔穿に勝るが弁舌は公孫龍に勝る、弁舌に勝る者は結局理に敗れる」と評した逸話も記される。
  • 鄒衍が趙を訪れた際、名家の弁論の弊害(煩雑な修辞で大道を害する)を批判し、公孫龍は退けられた(劉向別録に詳しい経緯が付される)。
  • 淮南子・列子・荘子には、公孫龍の弁論の限界を示す説話(燕王への使いで呼び声の巧者を用いた話、中山公子牟が公孫龍を弁護しつつも荘子の言に圧倒され二の句が継げなくなった話等)が付される。

中山公子牟

  • (列子・荘子より)魏の公子牟は公孫龍を弁護する立場だったが、荘子の言(井の中の蛙の喩え)に接して自失した逸話が記される。「身は江海の上に在れど心は魏闕の下に居る」との述懐(俗世への未練と隠棲への憧れの相克)も記される。

虞卿の失脚と著述

  • (史記より)虞卿は躡蹻擔簦の遊説士から趙の上卿に至ったが、友魏斉の窮地を見捨てられず万戸侯の印綬を捨てて共に逃げ、失意のうちに著書『虞氏春秋』八篇(春秋孔子の書に倣うわけではないと孔叢子で弁明される)を著した。

その他の逸話

  • (戦国策より)中山公子牟が応侯に「富貴驕奢の果てに死亡が至る」と説いた逸話、平原君が趙王に鄒文を推挙したが用いられなかった逸話、馮忌が平原君の燕討伐案を「趙は長平の疲弊で燕を攻める余力なし」と諫めた逸話、廬陵君(平原君の弟)を燕への配慮で追放したことを馮忌が矛盾と指摘した逸話。
  • (史記より)平原君は趙孝成王十五年に没し、子孫は代を継いだが、趙の滅亡と運命を共にした。