- 履歴: 趙孝成王期、韓の上党を巡る争いから始まった秦趙の大戦。趙は名将廉頗を趙括に代えたため大敗し、白起に四十万を坑殺された(長平の戦い)。続く邯鄲包囲戦では魏の信陵君らの救援で辛くも趙は存続した。
触讋、太后を説く
- (戦国策より)秦の急攻を受けた趙は斉に長安君(太后の末子)を人質に出す条件で援軍を求めたが、太后は拒んだ。左師触讋は「父母の子を愛する情は深く長い計慮にある」と諭し、位のみ高く功無き者は災いを招くと説いて、太后を翻意させた。
上党帰属と長平開戦
- (史記・戦国策より)秦が韓の野王を攻め上党への道を断つと、韓の上党太守馮亭は「秦より趙に帰そう」と考え、趙に上党を献じた。趙の平陽君は「禍大なり」と反対、平原君は「労せず郡を得る利」を説いて受理を主張し、趙孝成王はこれを容れた。馮亭は「不義三つ」を恥じつつも趙に降った。秦はこれを怒り長平で対峙した。
廉頗の堅守と反間の計
- (史記より)廉頗は堅壁持久策を取ったが趙王に怒られ、秦の反間(「秦が畏れるのは趙括のみ」との流言)により趙括に交代させられた。藺相如は「名で用いるのは膠柱鼓瑟」と諫めたが用いられず、趙括の母も「父奢とは全く異なる人物」と諫めたが聞かれなかった。
長平の大敗
- (史記より)秦は密かに白起を上将軍とし、趙括を挑発して包囲、糧道を断って四十六日籠絶させた末、趙括は突囲戦で射殺され、趙軍四十万は降伏したが白起は上党の民の離反を恐れて悉く坑殺、前後で四十五万を失わせた。趙は震撼した。
講和と邯鄲包囲
- (史記・戦国策より)虞卿の進言(重宝を楚魏に送り天下の疑いを誘って講和を有利にすべし)に反し趙王は鄭朱を秦に送って講和を求めたが、これは逆に秦に趙の弱みを天下に示す結果となり、講和は成らず趙王自ら秦に赴くこととなった。その後、応侯の進言で秦は一旦兵を引いたが、趙が約束の割地を渋ると(虞卿・楼緩の論争を経て斉への地の提供で秦との関係を有利に導く策を採った)、翌年秦は再び邯鄲を包囲した。
- 白起は「趙は長平以来団結を固めており、今の攻撃は得策でない」と再三の出兵要請を拒み、応侯に讒言されて士伍に落とされ、最終的に自刃を命じられた(「我固より死すべし、長平で降卒数十万を欺いて坑にしたのだから」との述懐が記される)。
邯鄲籠城と諸侯の救援
- (史記より)魯仲連は、秦に降って帝と仰ぐことに反対する新垣衍を「秦が帝を称せば諸侯の大臣は鄒魯の僕妾にも劣る扱いを受ける」と説いて翻意させ、秦軍は五十里退いた。
- 平原君は毛遂の推挙(「嚢中の錐」の故事)により楚と合従を結び(毛遂が剣を按じて楚王を説いた逸話)、信陵君は如姫の助力で兵符を盗み、朱亥が晋鄙を椎殺して兵権を奪い、趙を救援した(「窃符救趙」の故事)。李同は財を散じて士を励まし秦軍を退けた。
- 邯鄲の囲みが解けた後の国際情勢を論じた戦国策の弁論(安邑・晋陽・鄢郢を柱国とする三国の利害)も付される。