繹史楽毅、燕のため齊を破る(田単の復齊)(樂毅為燕破齊(田単復斉))
- 履歴: 燕の昭王に招かれた楽毅は、燕・秦・楚・三晋の連合軍を率いて斉を大破し七十余城を下したが、恵王の代に讒言で更迭され趙に亡命した。斉の田単は即墨に籠って反撃し、火牛の計で燕軍を破って斉を復興した。
楚の景陽と斉魏の駆け引き(前史)
- (戦国策より)斉韓魏が燕を攻めた際、楚将景陽が救援に赴きつつ、大雨での野営地選びの故事や計略で燕を救わず魏を攻める形に転じ、両軍を退かせた話。
- 蘇子(蘇秦)が斉湣王に「先んじて動く者は怨みを買い、後起の者が利を得る」との権謀論を、衛・魏・趙・楚・秦等の先例を挙げて説いた長弁。
湣王の驕りと臣下の諫言
- (列女伝より)宿瘤女(醜女)が斉閔王に容色より徳を重んじる道理を説き、王后となって斉を治め、燕の脅威に対処した逸話。
- (呂氏春秋より)尹文が斉王に「士の四行(孝・忠・信・悌)」を説き、王の言行不一致(見侮されても闘わぬ士を賞さぬ矛盾)を指摘した問答。
- 列精子高が井戸に映る自らの醜い姿を見て、佞臣が王を欺く危うさを悟った逸話(孔叢子に、車裂きの刑を諫めた子高の別話も付される)。
- 狐援が亡国の音を奏でぬよう湣王を諫めたが受け入れられず、哭国の罪で処刑された逸話。
燕昭王の招賢と楽毅の登用
- (戦国策より)燕昭王が郭隗に「まず隗より始めよ」の教えを受け、賢士を招く体制を整え、楽毅(魏より)・鄒衍(斉より)・劇辛(趙より)らが集った。二十八年かけて国力を養い、樂毅を上将軍として秦楚三晋と合従し斉を大破、湣王は出奔して莒に逃れた(説苑にも同趣旨の郭隗問答あり)。
斉の滅亡寸前
- (史記より)楽毅は臨淄を陥落させ斉の宝器を燕に運び、莒・即墨以外の全城を降した。湣王は衛・鄒・魯を頼ろうとしたがいずれも受け入れられず莒に走り、公玉丹に驕った言葉をかけられ続けた末、楚将淖歯に暗殺された。太子法章は身分を隠して太史敫の家に匿われ、莒人に擁立されて襄王となった。
田単の即墨籠城と火牛の計
- (史記より)田単は安平から即墨に逃れ、大夫として推されて将軍となり、樂毅と不和になった燕恵王が騎劫に代えさせたのを機に反間の計・鬼神を装う策・降卒虐待の流言・墓暴きの流言で燕軍と斉人の士気を操作し、最終的に火牛の計(角に刃、尾に松明を付けた牛を放つ)で燕軍を奇襲、騎劫を討ち取り燕軍を潰走させ、七十余城を回復して襄王を莒から臨淄に迎えた。
樂毅の亡命と燕王への書
- (史記・新序より)恵王は樂毅を召還しようとしたが樂毅は誅殺を恐れて趙に降り、望諸君に封ぜられた。恵王は樂毅を責める書を送ったが、樂毅は「賢聖の君は功ある者に禄を与え、伍子胥の轍を踏まぬため難を避けた」旨の名高い返書(「先王の遇せし義」を説く一節を含む)を送り、燕趙双方の客卿として活動した。
田単の治世と讒言
- (戦国策より)襄王擁立後も功臣田単への疑心が続き、寒中の老人に自らの衣を与えた田単の善行すら「人心を買う企み」と讒言されたが、貫珠者の進言で王自ら善政の宣伝に転じた話。将軍貂勃が「田単は周の太公・斉桓公の管仲に等しい功臣」と王を諭し、田単を讒言した九人を誅殺させた話。魯仲子(魯仲連)が田単の狄攻めの失敗を予見し、「即墨籠城時の死を賭す気概が今は失われている」と指摘、田単はこれを容れて士気を鼓舞し狄を陥落させた話。
燕趙の抗争と楽閒
- (史記・戦国策より)燕王喜が趙討伐を企てた際、昌国君樂閒(樂毅の子)は「趙は四戦の国で兵に習熟している」と反対したが聞かれず、燕軍は趙の廉頗に大敗し栗腹らを失った。樂閒は趙に奔り、燕王は謝罪の書を送ったが(内容は楽毅への書とほぼ同文)、樂閒は趙に留まり、後に趙の樂乘と共に燕を包囲する側に回った。
魯仲連、聊城を説く
- (史記より)燕将が讒言を恐れて聊城に籠城し、田単の攻撃が長期化した際、魯仲連は矢文で「智者は時に背かず利を捨てず、勇士は死を恐れて名を滅ぼさず」と説き、管仲・曹沫の故事を引いて「小節に拘らず大功を成すべし」と諭した。燕将はこれを容れて自裁し、聊城の囲みは解かれた。