- 履歴: 宋の最後の王・偃(康王)。武力を誇り驕慢な振る舞い(「桀宋」と呼ばれた)を重ねた末、斉湣王に滅ぼされた顛末を集めた項目。
宋と楚・斉の駆け引き
- (戦国策より)宋が楚と兄弟の誼を通じつつ斉の攻撃を受けた際、蘇秦が斉相に「楚と講和させ楚を怒らせて斉に付かせよ」と説いた策、宋の臣臧子が楚に救援を求め、楚王は喜んで承諾しつつも実際には来援せず、斉が宋の五城を落とした逸話。
- (史記より)宋の剔成王が弟の偃に襲われて斉に奔り、偃が自立して宋君となった経緯。
宋王偃の驕慢な逸話
- (韓非子より)宋王が武宮を築いた際、謳者射稽の歌の方が優れていたのに、築城の進み方で人気を判じた逸話。
- (呂氏春秋より)宋王が家臣を多く誅殺しても畏怖されない理由を相の唐鞅に問うたところ「善悪を問わず罰すれば畏れられる」と答え、王はほどなく唐鞅自身を殺した。
- (列子より)宋康王が「勇力を好み仁義を嫌う」と語った際、恵盎が「刺されず撃たれぬ道より、人に刺そう撃とうと思わせぬ道こそ孔墨に等しい」と説いた問答(呂覧にも同話)。割注に、宋康王の舎人韓憑の妻が夫の死を悼み投身し、相思樹と鴛鴦の伝説となった話も付される。
- 呂氏春秋には、宋王が皮袋に血を満たし矢で射て「天に勝った」と驕った逸話も付記される。
- (史記より)宋君偃十一年、自ら王を称し斉魏楚を破って驕り、皮袋を天に見立てて射る「射天」を行い、酒色に溺れ諫言する者を射殺した。諸侯は「桀宋」と呼び、討伐を正当化した。
- (戦国策より)雀が城の隅に鴟(大鳥)を生んだという瑞兆を「小より大を生む」と喜び、滕を滅ぼし薛を伐ち、天・地・社稷にまで暴虐を働いて国人を恐れさせた末、斉の侵攻で滅んだ経緯が記される。
五国の合従と秦楚の介入
- (戦国策より)斉の宋攻めを巡り、秦・趙・魏・韓それぞれの利害得失を説く長大な弁論の数々が記される。李兌・奉陽君・蘇代らが趙・秦の講和と斉の宋討伐を巡って様々な策を献じ、五国が秦を伐って功なく引き上げた後、斉が宋を伐つのを秦が禁じようとした顛末、秦が趙・魏との駆け引きの中で宋討伐を黙認するに至る経緯が詳述される。
宋の滅亡
- (史記より)斉湣王三十八年、斉は宋を伐ち、秦昭王はこれを怒ったが、蘇代は「斉が宋楚を得て強大化すれば韓聶(斉の将)が労せず秦に有利になる」と説いて秦を宥めた。斉はついに宋を伐ち、宋王は出奔して温で死に、斉は楚の淮北を割き三晋を侵して周室の簒奪すら図り、鄒魯の諸侯を臣従させて諸侯を恐れさせた。
- (呂氏春秋より)斉軍接近の急を告げた使者が、王の怒りを恐れて虚偽の安全報告をしたところ賞賜され、油断していた宋王は斉軍到来時に自ら車で逃げ出した寓話(登山して牛や羊を見誤る比喩を添えて、王の賞罰の誤りを風刺する)。
- (史記より)宋王偃在位四十七年、斉湣王が魏楚と共に宋を伐ち偃を殺して宋は滅び、三国でその地を分割した。