- 履歴: 孟嘗君田文。斉の宗室田嬰の庶子。五月五日生まれで捨てられかけたが、天命論を説いて父に認められ、のち薛の後継ぎとなり食客数千人を養い、斉・魏・秦の相を歴任した戦国四君の一人。
出生と薛の相続
- (史記より)五月五日生まれの子は戸口の高さまで育つと不吉とされ、父田嬰は文(後の孟嘗君)を捨てるよう命じたが、母がひそかに育てた。文は「命は天から受けるもので戸の高さとは無関係、それでも心配なら戸を高くすればよい」と父に説き、認められて薛の家政を任され、賓客を厚遇して声望を高め、田嬰の死後に薛公(孟嘗君)となった。
食客との交わり
- (史記より)孟嘗君は食客を貴賤の別なく厚遇し、面談の内容を控えて後日親族への配慮まで行った。夜食の際、灯火を遮った客が「食事に差別がある」と誤解して自刎しようとしたのを、自ら同じ食事を示して晴らした逸話が、食客が心服した理由として記される。
- (呂氏春秋より)斉から亡命した学者陳駢子を厚遇した話(威王期の事蹟の混入かと編者按で疑問視される)。
- (戦国策より)夏侯章が孟嘗君を陰で謗りながら実は恩義を重んじていた逸話、張禄(後の范雎とは別人)が「貴くば賢を挙げ富めば貧を振うべし」と説き秦への口利きを頼んだ逸話(後に「衣新にして旧びず」の故事となる)。
- (戦国策より)斉王に三年重用されず怨まれた際、孟嘗君は「媒無くして嫁ぐも同然」と答えたが、食客は「良い猟犬は的を見て放つべき」と反論し、孟嘗君を再び斉の相に推挙し用いさせた。
- (韓詩外伝より)老いた楚丘先生が「まだ壮健だ」と孟嘗君を諭した逸話、白圭が魏文侯の名声と功業の差を「私愛が公事を妨げた」と論じた逸話。
- (説苑より)雍門子周が琴を弾じて孟嘗君を泣かせた話(薛の将来の禍を予見させる内容で、孟嘗君を深く感動させた)。
- (韓詩外伝より)閔子(子思門下か)に師事を請うた逸話。
食客の諫言と度量
- (戦国策より)三人の食客がそれぞれ自らの才を売り込む場面、魯仲連が「馬や妃には駿馬・美女を求めながら士には求めぬのは道理に合わぬ」と孟嘗君を諫めた話、逐い出そうとした舎人を魯連が「人材はその長所に応じて用いよ」と諫めて止めさせた話。
- 楚から象牙の寝台を贈られた際、送り届ける役目の登徒直が難色を示し、食客公孫戌が受け取りを諫め、孟嘗君はこれを容れ、諫言を歓迎する布告を門に掲げた話。
- 孟嘗君の夫人と密通した舎人を許し、後にその舎人を衛国に送って重用させ、斉衛の同盟を維持させた度量が記される。
秦への入朝と脱出
- (史記より)秦昭王に招かれ入秦した孟嘗君は、蘇代の「木偶と土偶」の喩え(他国で客死する危険)で一度は思いとどまったが、斉湣王二十五年に再び秦に入り相となった。しかし讒言により幽閉され、食客の狗盗の術で幸姫に狐白裘を献じて釈放され、鶏鳴の術で函谷関を脱出した(鶏鳴狗盗の故事)。趙を通過した際、住民に嘲笑され怒って一県を斬り滅ぼした逸話も記される。
馮驩と孟嘗君
- (史記・戦国策より)貧士馮驩(馮煖)が「長鋏帰り来たれ」と歌いつつ厚遇を求め、最終的に薛での貸付の焼却で民心を得(「市義」の故事)、斉王に廃された孟嘗君のために梁へ働きかけて重用を演出し、薛に宗廟を建てさせて安泰の礎とした(「狡兎三窟」の故事)一連の逸話。
- 廃されて客が去った後、復位すると馮驩は「市の朝夕の理」を説いて客を恨まぬよう諭し、孟嘗君はこれに従った(戦国策では譚拾子の言として同趣旨が記される)。
相国としての活動と晩年
- (史記より)湣王の疑いを受け一時魏に逃れた際、舎人魏子が助けた賢者が命を賭して身の潔白を証明した話。
- 淳于髠が薛への攻撃を諷諌で退けた話、趙の武城を治める際に「借り物を大切にせよ」と部下を戒めた話。
- 秦の穰侯魏冉との駆け引き(呂礼の排斥策)や、秦への破壊工作の進言。斉湣王が驕り宋を滅ぼして孟嘗君を疎んじると、魏に走って魏の相となり、秦趙燕と結んで斉を破った(後に湣王は莒で客死する)。
- (韓非子より)魏の欒子(陽胡潘other)を財と情で懐柔した術策、魏昭王が政務を学ぼうとして法令の煩雑さに閉口した逸話。
- 斉襄王の代に薛公として中立を保ち、没後は諸子が家督を争い斉魏に滅ぼされて薛は絶えた。太史公は薛の地の任侠の風を実見し、孟嘗君の名声が実質を伴うものであったと評した。