- 履歴: 屈原、名は平。楚の同姓、懐王の左徒。博聞強記で内政・外交を掌ったが、上官大夫の讒言により懐王に疎まれ、のち頃襄王のもとで江南に追放され、汨羅に身を投げて没した。楚辞の代表的作者とされ、後段には弟子とされる宋玉の逸話・作品も付す。
屈原の失脚と『離騷』の成立
- (史記より)屈原は懐王の信任厚く憲令の草案を任されたが、上官大夫に成果を横取りされそうになり拒んだため讒言され、王に疎んじられた。憂愁のうちに『離騷』を作った。太史公は、国風は好色にして淫せず、小雅は怨誹にして乱れずというが、離騷はその両者を兼ねると評し、その文辞は約にして意は深く、日月と光を争うに値すると評価した。
張儀の欺瞞と懐王の客死(前出「楚懐王客死于秦」と重複する経緯)
- (史記より)屈原が退けられた後、秦の張儀が斉楚離間を図って商於の地六百里を約束したが実際は六里しか与えず、楚は秦に大敗した。屈原は使者から戻り、懐王に張儀誅殺を進言したが聞き入れられず、後に懐王は秦に誘い出されて抑留され、客死した。頃襄王が立ち、弟の子蘭を令尹としたが、屈原は懐王を秦に入れた子蘭を恨みつつも、なお楚の行く末を案じ続けた(『離騷』の中で繰り返し思いを述べる所以)。太史公は、忠臣賢者を用いながら国が滅びるのは、真に忠賢を見抜けなかったためだと論じる。
屈原の投身
- (史記より)令尹子蘭は上官大夫に命じて屈原を頃襄王に讒言させ、屈原は追放された。江畔で漁夫と問答し「衆人皆酔い我独り醒む」と答えた話(漁父の逸話の原型)の後、懐沙の賦を作って汨羅に身を投げた。新序には、屈原が斉との連携を図ったが張儀らの賄賂工作で讒言され追放されたとする異伝も付す。
『離騷』
- (楚辞より)帝高陽の末裔たる自らの出自から説き起こし、香草を身に飾る美徳の比喩、堯舜と桀紂の対比、霊修(君主)への訴えと裏切られた悲嘆、天上を巡り美女(宓妃・佚女など)を求める幻想的な遍歴、巫咸への占いを経て遠く天を翔けようとしつつも故郷を離れがたく、彭咸(殷の賢臣で入水したと伝わる)に従おうとする結末までを綴った長編韻文。忠誠を尽くしても讒言により見捨てられる悲憤と、清廉を守り続ける志が終始一貫して歌われる。
『九歌』
- (楚辞より)楚の沅湘地方の巫祭の歌を基にしたとされる連作。東皇太一・雲中君・湘君・湘夫人・大司命・少司命・東君・河伯・山鬼・国殤・礼魂の各神霊を祀る歌からなり、神々への思慕と逢えぬ哀愁、戦没者への鎮魂(国殤)などが歌われる。
『天問』
- (楚辞より)天地開闢・日月星辰の運行から、鯀禹の治水、夏商周三代の興亡、羿・浞・少康・湯武・幽厲に至るまでの神話・伝説・史実にわたる疑問を、次々と天に問いかける形式で連ねた特異な作品。
『遠遊』
- (楚辞より)世俗の逼迫を逃れて仙人のように天地の外に遊びたいという願望を歌う。赤松子・王喬らの故事を慕い、天門を叩き神々を従えて宇宙を巡る幻想を描きつつも、なお故郷を顧みる情も滲ませる。
『卜居』・『漁父』
- (楚辞より)『卜居』は、放逐された屈原が太卜鄭詹尹に「忠直に生きるべきか、俗に流されるべきか」を占わせるが、卜者は「亀策も知り得ぬ」と答える対話。『漁父』は、江畔で「挙世皆濁り我独り清し」と語る屈原に対し、漁夫が「聖人は物に凝滞せず世と推移すべし」と説き、「滄浪の水」の歌を歌って去る問答。両篇とも屈原の潔癖な志と、それに対する処世観の対比が主題。
『九章』
- (楚辞より)惜誦・渉江・哀郢・抽思・懐沙・思美人・惜往日・橘頌・悲回風の九篇からなる連作。忠を尽くしながら讒言により追放された悲しみ、江南を放浪する旅情、故郷郢への思慕、橘の徳を借りた節操の称揚などが繰り返し歌われ、懐沙・惜往日では入水を覚悟した心情が語られる。
『大招』
- (楚辞より)屈原が没する前、憂愁のうちに自らの魂を大きく招いたとされる作品で、東西南北の危険を述べて魂の帰還を促し、後半は楚国の富貴・美食・美女・音楽・政道の理想を並べ立てて魂を慰める構成。編者按(王逸)は景差の作とする説もあると付す。
屈原以後 —— 宋玉らの継承
- (史記より)屈原の死後、宋玉・唐勒・景差らが辞賦をもって知られたが、皆屈原の穏やかな文辞に倣うのみで、直諫する者はなかった。楚はその後数十年で秦に滅ぼされた。太史公は、離騷・天問・招魂・哀郢を読んで屈原の志に涙し、賈誼の弔文を読んでその境遇を改めて悲しんだと述べる。
- (新序・宋玉集より)宋玉が友人の紹介で頃襄王に仕えたが重用されず、友人に恨み言を言われた逸話、また「玄猿は木の上では敏捷だが茨の中では竦む、境遇によって能力の発揮は変わる」との比喩で自らの不遇を語った逸話が記される。
宋玉の『九辯』
- (楚辞より)秋の物寂しさを人生の不遇に重ね、貧士が職を失う悲哀、君主に見放される嘆きを歌う。屈原を慕う弟子としての宋玉が師の忠貞を追想して作ったと伝えられる。
宋玉の『招魂』
- (楚辞より)東西南北・天上・幽都のいずれも危険に満ちるとして魂の帰還を促し、後半は故郷の壮麗な邸宅・美食・美女・音楽・遊猟の豊かさを描いて魂を呼び戻そうとする構成。王逸注は、宋玉が師屈原の忠節を悼み、懐王を諷諌する意図で作ったとする。
宋玉の賦作
- (宋玉賦より)『高唐賦』『神女賦』は、楚の襄王が雲夢の台で朝雲暮雨の神女の故事を聞き、その姿を賦にした艶麗な作品。『登徒子好色賦』は、好色と誹謗された宋玉が「隣家の絶世の美女にすら三年心を動かさなかった」と弁明し、逆に登徒子こそ醜妻を寵愛する好色者だと切り返す機知に富む逸話。『諷賦』はこれに類する自己弁護の作。『風賦』は「大王の雄風」と「庶人の雌風」を対比し、身分による境遇の差を風に託して諷諌する。『笛賦』『舞賦』『釣賦』はそれぞれ楽器・舞・釣を題材にした技巧的な賦。『大言賦』『大言賦』は言葉の誇張を競う遊戯的作品で、宋玉が最も巧みな大言・小言を述べて王の褒賞を得る。
- (新序より)宋玉が楚の威王(原文では頃襄王とも)に「陽春白雪の高い調べに和す者は少なく、鳳凰や鯨のような大人物の境地は俗人には理解し得ない」と自らの不遇を弁じた逸話が付される。