繹史兵を以て合す(断簡)(楚懐王客死于秦(続き・頃襄王の即位まで))

  • 履歴: 0242・0243から続く合従論の結末部分と、楚懐王抑留後、太子(頃襄王)が即位するまでの経緯、および頃襄王六年の秦楚関係修復までをまとめる。

合従論の結び(趙・燕・中山を巡る駆け引き)

  • (戦国策より、前条の続き)弁士の説得により趙は三晋と兵を合わせることになった。
  • 別の弁士は燕王に対し、山東諸国が強国に事えるだけでは万世の計にならず、弱国同士が結束すべきだと説いた。
  • 富丁は趙を斉魏と結ばせようとし、楼緩は趙を秦楚と結ばせようとして対立した。司馬淺は富丁のために趙の主父(武霊王)へ、斉に順うことで韓魏を斉から離反させ趙を重んじさせる策、あわせて中山を併呑する策を説いた。

孟嘗君と西周・秦の駆け引き

  • (史記より)孟嘗君は斉のために韓魏と共に秦を攻めようとし、西周から兵を借りようとしたが、蘇代が西周のために「斉が強くなりすぎれば韓魏も西周も危うい」と説き、秦と和して函谷関に迫るに留めるよう勧めた。この策によって薛公(孟嘗君)は矛を収め、楚懐王を秦から出させる交渉に転じた。
  • (戦国策より)三国(斉韓魏)が秦を攻め函谷関に迫った際、秦王は樓緩に河東割譲での講和を諮り、公子他は「講和しても講和しなくても悔いは残るが、危険を避けるため講和すべき」と進言、秦は三城を差し出して講和した。

頃襄王の即位

  • (史記より)楚の大臣らは太子が秦にいて動けぬことを憂い、庶子の擁立を図ったが昭雎は反対した。斉に人質としていた太子横は、斉が東国の割譲を要求する中で帰国を許され、頃襄王として即位した。頃襄王元年、秦は懐王の帰還を拒み楚を大破、析など十五城を奪った。二年、懐王は秦を脱走しようとして捕らえられ、発病。頃襄王三年、懐王は秦で客死し、遺骸は楚に送還されて楚人は哀しんだ。これにより秦楚の関係は断絶した。
  • (戦国策より)楚太子(頃襄王)が斉に人質だった際、懐王の死により帰国を求めたところ、斉が東地五百里の割譲を要求し、傅の慎子の進言で献上を約して帰国。即位後、齊が地を求めてくると、子良・昭常・景鯉の三者三様の策(与える・守る・秦に頼る)が出され、慎子はこれを全て併用する策を説いて秦の介入を招き、東地を保全した。
  • 別伝として、蘇子が薛公に「太子を留めて東国を得るべき」と説いた顛末も記される。編者按:この一連の策士の弁は史実の頃襄王の即位経緯とは食い違い、後世の仮託とみられる。
  • (新書より)懐王が驕り、諸侯の君主を象った金像を配下に扮させて先導させるなど覇者を僭称する振る舞いをしたため諸侯の怒りを買い、伐たれて逃亡したという異説も記される。

頃襄王六年の秦楚関係修復

  • (史記より)頃襄王六年、秦将白起が韓を伊闕で大破し二十四万を斬首した。秦は楚に書を送り再戦を促したが、頃襄王はこれを憂い秦との和平を図った。七年、楚は秦から妃を迎え両国は再び和した。