二臣併用の戒め
- (戦国策より)韓宣王が樛留に、公仲・公叔の二人を並び用いたいと相談したところ、樛留は晋の六卿分裂、斉簡公の弑逆、魏の犀首・張儀併用による西河喪失を例に、権臣を並び立てれば内に党派を作り外に権を売って国が危うくなると諫めた。
- (韓非子より)同様の問答が伝わり、別伝では「斉桓公の管仲・鮑叔、殷湯の伊尹・仲虺の例は二臣併用でも国は栄えた」との反論、術(統御の術)の有無こそが要であり、術なくして二臣を用いれば争いと外交への売り込みを招くとする論が付記される。
韓宣王をめぐる小話
- (韓非子より)呉章は韓宣王に「君主は愛憎の情を安易に見せてはならない、佯りの愛憎もすぐに阿諛の徒に利用される」と説いた。
- (戦国策より)ある客が韓宣王を説いて喜ばせ、左右の者がそれを王より先に客へ告げて恩を売った逸話が伝わる。
公仲・公叔をめぐる暗闘
- (戦国策より)公仲がたびたび諸侯の信を失い、楚に頼ろうとした際、蘇代は楚王に「聞き入れつつ裏切りに備えよ」と進言した。
- (戦国策より)斉は周最を鄭に遣わし韓擾を立てて公叔を廃そうとしたが、公叔の怒りを恐れた周最を史舍が「猛犬を叱るには徐ろに叱れば噛まれぬ」との譬えで説得し、周最はかえって公叔に重んじられ、鄭王は韓擾の要求を拒んだ。
- (戦国策より)公仲が韓魏の領地交換を図った際、公叔がこれに反対して亡命しかけたが、史惕は「公叔が去ればかえって交換が成立してしまう、楚・趙に働きかけて交換を妨害すべき」と進言した。
- (戦国策より)西周もこの領地交換を憂い、樊餘は楚王に、韓魏が交換によって二周を包囲し九鼎を得る恐れを説いて交換を阻止させた。
- (戦国策より)顔率が公仲に会おうとして拒まれた際、謁者に取り入って公仲の人柄を巧みに評したところ、公仲は態度を改めて面会した。
- (戦国策より)ある論者は公叔に「舟の穴を塞いでも大波に用心せねば覆る」との譬えで、秦との関係に慎重を期すよう説いた(割注に、公叔が斉・韓の軍を鄭に引き入れて自らの地位を固めた韓非子の逸話が付記される)。
- (戦国策より)ある論者は公仲に「秦にいち早く与すれば主にも国にも身にも利がある」と長々と説いた。
- (戦国策より)別の論者は公仲に「孿子(双子)の見分けは母にしかつかぬように、利害の見分けは智者にしかつかぬ」との譬えで、秦魏の和議に乗じて韓が両国の間に立てば国も身も安泰になると説いた。
太子争いの前哨
- (戦国策より)公叔が斉・魏の後ろ盾を得、太子(後の蟣虱)が楚の後ろ盾を得て国を争った際、楚の使者鄭申は独断で新城・陽人の地を太子に与え、楚王の怒りを買ったが、「太子が公叔と争うための備えであり、韓が窮すれば結局楚を頼ることになる」と弁明して罪を免れた。
- (戦国策より)鄭彊が秦に韓討伐を働きかけようとした際、冷向は「金で頼んでも秦は動かぬ、むしろ公叔と幾瑟(蟣虱)の不和を秦王に疑わせよ」と説いた(幾瑟を陽翟に置いて公叔の仇である昭献と結ばせ、秦に公叔と楚の内通を疑わせる策)。
蟣虱(幾瑟)の帰国工作と咎の立太子
- (史記より)韓の太子嬰が死去し、公子咎と楚に人質となっていた公子蟣虱が太子の座を争った。蘇代は韓咎に、楚の大軍を背景に蟣虱を帰国させて恩を売り、楚韓両国の後ろ盾で立場を固めるよう献策し、韓咎はこれに従った。楚は雍氏を包囲して圧力をかけ、韓は秦に救援を求めたが、秦は当初応じなかった。
- (史記より)公孫昧との問答で、公仲は秦の真意(表向き韓を助けるが実は楚と通じている)を見抜き、斉・楚と結ぶ方針に転じた結果、楚は雍氏の囲みを解いた。
- (史記より)蘇代は秦の太后の弟芈戎に、蟣虱の帰国を妨げるよう秦から楚へ働きかければ、韓・秦・楚三国の力関係を操作できると説き、結局蟣虱は帰国できず、韓は咎を太子に立てた。
幾瑟をめぐる存廃論
- (戦国策より)公叔が幾瑟を殺そうとした際、宋赫は「殺せばかえって太子(咎)の権威を軽くする、生かして韓の大夫たちに疑心を抱かせておく方が幾瑟の乱を防げる」と説いて思いとどまらせた。
韓咎の即位をめぐる周の関与
- (戦国策より)韓咎が即位したがまだ定まらぬ頃、弟が周にいたため、周は車百乗を送って弟を助けようとしたが、綦母恢は「金百鎰で韓咎に取り入る方が得策、咎が立てば恩を売れ、立たねば見限ればよい」と説いた。