- 履歴: 衛嗣君は小国衛の君主。史記によれば嗣君五年、称号を「侯」から「君」に落とし、濮陽一邑のみを保つに至った小勢力であったが、法治への強いこだわりと臣下操縦の術で知られる。
一人の徒刑囚を惜しむ理由
- (戦国策・韓非子より)嗣君の時代、逃亡した徒刑囚(胥靡)が魏に逃れた。嗣君は百金で身柄を求めたが応じられず、代わりに左氏の邑を提供して取り戻そうとした。群臣は「一都邑ほどの価値で一囚人を贖うのか」と諌めたが、嗣君は「治世に小事なく乱世に大事なし。法が立ち誅罰が必ず行われれば十の左氏を失っても損はない」と答えた。魏王はこれを聞き、衛の治世への意欲に感心して無償で囚人を返還した。
明察を装う統治術
- (韓非子より)嗣君は関所の役人が賄賂を受け取るか試すため、客に金を持たせて通過させ、後で「あの時の客から金を受け取っただろう」と役人に告げて震え上がらせた。また、県令の寝具が破れていると聞くと新しい席を密かに贈って「神のごとき明察」と畏れさせた逸話も記す。
薄疑の諫言
- (戦国策より)嗣君が薄疑に高位・領地を与えようとすると、薄疑は「自分の智は万乗の相にも足るが、母ですら巫女(蔡嫗)の占いに従って最終決定を下す。人主にも必ず『蔡嫗』(実権を握る側近)がおり、法に基づく自分の言葉は、私を通じて物事を動かす者たちと相容れない」と述べて固辞した。別伝では、嗣君が薄疑を同道に誘った際、薄疑がまず母に相談し、母が「衛君の愛も賢さも自分(母)には及ばぬのに、それでも最後は占い師に決を仰ぐ」と諭した逸話を記す。
課税をめぐる薄疑の説
- (呂氏春秋より)嗣君が重税で穀物を蓄えようとした際、薄疑は「穀物が民にあるか上にあるかは問題ではなく、政治が己を省みる(反諸己)ことこそ肝要」と説いた。またある問答では、嗣君が「千乗の国しか持たぬ身」と謙遜すると、薄疑は「烏獲が千鈞を担げるなら一斤など問題でない」と応じた。
如耳の処遇と権力の均衡策
- (韓非子より)如耳が嗣君を説き感心させたが、嗣君は彼を相にしなかった。理由を問われ「馬に似た鹿は高値でも、馬ほど役に立たぬのは人に使われぬからだ。如耳は万乗の大国に心を寄せており、衛のために働くとは限らぬ」と答えた。また嗣君は寵臣如耳と側室世姫の勢力が突出せぬよう、薄疑・魏姫をそれぞれ対抗馬として重用したが、これは根本的な情報遮断の解決にはならず、かえって新たな壅塞の臣を生む危うさがあると評される。
如耳の外交による衛の救済
- (史記より)魏に攻められ城を失った衛君のため、如耳は成陵君と魏王を説得した。「魏が趙を攻め従属させても趙が滅びなかったのは魏が合従の盟主だったからだ。衛を秦に譲れば衛の恩は秦に帰すが、魏が衛を釈放すれば衛の恩は魏に帰す」と説き、また魏王には「衛が宝器を出し渋るのは、攻めた者ではなく釈放した者にこそ宝器が渡ると衛が見込んでいるからだ」と説いて、魏に兵を退かせ衛を救った。
嗣君の死後の権力継承策
- (戦国策より)病床の嗣君のため、富術は殷順且に「嗣君の遺言として緤錯・挐薄を重臣とし、公孫氏に権力を渡さぬよう説くべき」と献策した。嗣君はこれを容れ相印を授け、死後、殷順且は公子期を立てて緤錯・挐薄の一族を重用し、公孫氏の一族を悉く追放したという。