繹史齊宣王、士を好む(稷下の諸子)(齊宣王好士(稷下諸子竝附))

鄒忌の諫言

  • (戦国策より)鄒忌は宣王に、寵臣晏首が推挙する人材が少ないことを「一人の孝行より五人の孝行が優る」の譬えで諫めた。

王斗の直言

  • (戦国策より)王斗は宣王に招かれると、「先君桓公は馬・犬・酒・色・士の五つを好んだが、王は士を好まぬ」と直言した。宣王が「今の世に士はいない」と弁解すると、王斗は「良馬・名犬・美女は見つけているのに、士だけは求めていないだけだ」と切り返し、さらに「王が国を治めるのに側近ではなく専門の職人に冠を作らせるのと同様、政治も真の人材に任せるべき」と説いた。宣王はこれに謝し士五人を登用、斉は大いに治まった。

顔斶の矜持

  • (戦国策より)宣王が顔斶を「前へ」と呼ぶと、斶も「王、前へ」と応じ、群臣は無礼と咎めた。斶は「士が王に近づくのは権勢へのへつらい、王が士に近づくのは賢者を慕う証」と述べ、秦が斉を攻めた際「柳下季の墓の近くで木を伐れば死罪」としたが「斉王の首を得れば万戸侯」とした故事を引き、生きた王の首より死んだ賢者の墓の方が重んじられる道理を示した。宣王は感服し弟子入りを願い、厚遇を約したが、斶は「玉も磨けば器となるが璞のままの完全さを失う。士も推挙されれば禄を得るが本来の姿を損なう」と述べ、質素な生活(晩食を肉に代え、安歩を車に代え、無罪を貴きに代え、清浄貞正を娯しみとする)を望んで辞し帰郷した。

閭丘卭の弁論

  • (新序より)十八歳の閭丘卭が仕官を願い出て、若さを理由に断られると、顓頊が十二歳で天下を治め項橐が七歳で聖人の師となった例を挙げ、また名馬・大鳥・名剣もそれぞれ得意分野が異なるように人の才も年齢によらぬと弁じた。さらに讒言する者が側にいるために自分が遅れて認められたのだと述べ、宣王は非を認めて登用した。

田過の忠孝論

  • (韓詩外伝より)宣王が「儒者は父への喪を三年とするが、君と父いずれが重いか」と問うと、田過は「父の方が重いようだが、君の土地・禄・爵があってこそ親を養い顕彰できる。ゆえに君に事えるのも親のためである」と答え、宣王は言葉に窮した。

匡倩の礼義論

  • (韓非子より)宣王が匡倩に「儒者は博打をするか」「弋(鳥を射る)をするか」「瑟を弾くか」と問うと、匡倩はそれぞれ「賭博の勝敗は尊卑を乱す」「弋は下から上を害する象徴」「瑟の大小の弦の音の逆転は貴賤の秩序を乱す」として、儒者は義を害するゆえに行わないと答えた。

田稷子の母の義

  • (列女伝より)斉相田稷子が下吏より百鎰の金を受け母に贈ったところ、母は「士たる者は不正な利を取らぬはず」と厳しく戒めた。田稷子は恥じて金を返還し自首、宣王はその母の義に感じて田稷子を赦し復職させ、公金を母に賜った。

閭丘先生の献言

  • (説苑より)宣王が社山で狩猟した際、父老に免税・免役を賜ると皆拝謝したが閭丘先生だけは拝さなかった。理由を問われると「真に望むのは善良な官吏の登用・時宜にかなった振恤・長幼の礼の実践であり、免税免役はかえって国庫や官府を損なうもの」と答え、宣王はこれに感じて閭丘先生を相に迎えた。

檀子ら四臣こそ国の宝

  • (韓詩外伝より)魏恵王が珠玉の宝を誇ったのに対し、宣王は「わが宝は檀子(南城守備で楚の侵犯を防ぐ)・盼子(髙唐守備で趙の侵犯を防ぐ)・黔夫(徐州守備で燕趙の民を帰服させる)・種首(盗賊を防ぎ道に遺失物なきを保つ)の四臣であり、千里を照らすものだ」と答え、魏王は恥じて退去した。

稷下学士の隆盛

  • (史記より)宣王は文学遊説の士を好み、騶衍・淳于髠・田駢・接予・慎到・環淵ら七十六人に上大夫の禄を与え、職務なく議論のみを行わせたため、稷下の学士は数百千人にまで栄えた。

田巴の議論と鄒衍の学説

  • (新序より)田巴は宣王に招かれ「政の要は正身にあり、正身の要は群臣にあり」と説き、鏡に照らして己の醜を知る妾の譬えで、王が己の非を顧みることの重要性を述べた。
  • (史記より)騶衍(鄒衍)は徳治の衰退を憂い、陰陽五行の消長を説く壮大な宇宙論(五徳終始説、天下は「赤県神州」を含む大九州から成るとする説)を著した。表面は誇大だが要は仁義節倹に帰すとされ、梁・趙・燕など諸侯から厚遇され、燕昭王は碣石宮を築いて師事したという。

淳于髠の弁舌

  • (戦国策より)淳于髠が一日に七人の士を宣王に推挙し、王が「士が多すぎるのでは」と訝ると、髠は「同類は群れて集まるもの、自分は賢者の同類ゆえまだまだ推挙できる」と答えた。
  • (史記より)淳于髠が斉王の使いで楚に鵠(大鳥)を献じる途中、逃げられてしまい、正直に事情を打ち明けて楚王に謝罪したところ、その誠実さを賞され厚く賜った逸話を記す。
  • (史記より)淳于髠は博聞強記で、晏嬰のように顔色をうかがって諫言する人物であった。梁恵王に二度謁見しながら無言だったのは、王の心が馬や歌手に向いていたのを見抜いていたためと説明し、恵王は感服して三日三晩語り合った末、卿相の位を辞退し帰郷した。
  • (呂氏春秋より)斉王が淳于髠を太子の傅にしようとした際、髠は「王自身が堯舜のごとき理想の父であれば、太子に説く言葉は入らぬ」と婉曲に固辞した。
  • (淮南子より)淳于髠は魏王に合従(従)と連衡(衡)の両策を説いたが一貫性がなく信用を失い、疎んじられた。これは道理の根本を失えば技巧が多くとも役立たぬ例とされる。

慎到・田駢・接子・環淵・騶奭

  • (史記より)慎到(趙人)・田駢・接子(斉人)・環淵(楚人)は皆黄老の道徳の術を学び、それぞれ著書を残した。騶奭も騶衍の説を採り文章を整えた。宣王はこれら稷下の学士を「列大夫」に任じ邸宅を与え尊寵し、天下に賢士を招く斉の力を示した。

『慎子』の要旨

  • (慎子・威徳より)天が人の暗さを憂えぬように、聖人も民の危うさを憂えず、民が自ら己を安んじるようにするのが理想の統治とする。天子・国君・官長はいずれも「その地位にある者の利益のため」ではなく「天下・国・職務のため」に立てられたものであり、法は不完全でも無いよりまさる(人心を一つにするため)とする。
  • (慎子・民雑より)君主は臣下それぞれの才を用いるべきで、自ら善行を為して臣下と競うべきでなく、君は逸楽し臣が労するのが正しい秩序(君臣が逆転すれば乱れる)と説く。
  • (慎子・徳立より)天子・諸侯・正妻・嫡子の地位を疑わせぬことが乱を防ぐ要諦であるとする。
  • (慎子・逸文より)「国を善く治める者は身を謀る心を国を謀る心に、富を求める意を民を富ませる術に転じよ」「湯武の民と桀紂の民に差はなく、治乱は上の政にある」「法は天下を斉しくする至公の制であり、智者も弁者も法を越えて肆にはできない」「聖人の治は独治を貴ばず衆と共に治めることを貴ぶ」など、法治と衆知活用を説く多数の断片が引かれる。

田駢の道術

  • (呂氏春秋・淮南子より)田駢は斉王に「政を語らずして政を得る」道術を説き、材木のない林から材が得られるように、王自らが斉の政を汲み取るべきだと述べた。
  • (戦国策より)斉人が田駢に「仕官せずと標榜しながら実利は多い」と皮肉り、三十年不嫁を標榜しながら七子を生んだ隣家の娘の譬えで揶揄した。
  • (呂氏春秋より)田駢を訪ねた客が、礼儀作法は整っているが真の「士」ではないと見抜いた逸話を記す。

尹文の無為の政

  • (説苑より)尹文は宣王に「人君の事は無為にして下を容れることにある」と説き、事少なく法簡なれば民は罪に問われぬと述べた。

『尹文子』の刑名論

  • (尹文子より)「大道は形無く、器に称して名有り」とし、名を正すことで形(実質)が定まるとする「刑名(名実)」思想を展開する。道・法・術・勢の階層関係を説き、名を「命物の名」「毀誉の名」「况謂の名」の三種、法を「不変の法」「斉俗の法」「治衆の法」「平準の法」の四種に分類する。
  • 名と実の乖離を示す寓話を多数引く。宣王が実際は三石の弓しか引けぬのに周囲におだてられ九石と思い込んだ話、謙遜を装った黄公の醜女がかえって国色として評判になった話、山雉を鳳凰と偽って売った者が思わぬ厚遇を得た話、怪石と偽られ捨てられた宝玉が魏王に見出された話などを通じ、名声と実質は必ずしも一致しないと説く。
  • 田子・宋子・彭蒙の問答では「聖人の治」(個人の徳による治)と「聖法の治」(理に基づく法による治)の違いを論じ、後者こそ万世の利であるとする。父子・長者と僕の呼び名にまつわる寓話、「鄭人の璞」(玉と鼠の異称混同)の寓話なども引き、名分の混乱を戒める。
  • 為政者は民を貧富自在にせず、爵禄と刑罰によって富貴・貧賤を制御すべきとし、窮民の望みに応えることの重要性を説いて締めくくる。

列子に見る尹文の幻術

  • (列子より)老成子が尹文先生に幻術を三年学んでも教えを受けられず退学を願うと、尹文は老子の「生も死も造化の幻に過ぎぬ」との説を伝えた。老成子はこれを三月思索して幻化の術を体得したが、生涯その術を伝えなかったという。

大室建造をめぐる諫言

  • (呂氏春秋より)宣王が百畝・三百戸規模の壮大な太室を三年かけても完成できずにいた際、春居は楚王の故事(賢臣多くも諫言なく国を滅ぼした例)になぞらえて婉曲に諫め、宣王は非を悟って建造を中止した。

無鹽女(鍾離春)の諫言

  • (新序より)容姿の醜い無鹽の女が自ら宣王に謁見を願い出て、四つの危機(後継未定・浪費・佞臣の跋扈・酒色に溺れる乱れ)を「殆哉殆哉」と説き、宣王は深く感銘を受けて漸台の造営を中止し、諂臣を退け、直言の道を開き、太子を立て、ついに無鹽の女を王后に迎えて国を安定させたという。

於陵仲子の清廉

  • (高士伝より)陳仲子(於陵仲子)は兄が卿として万鍾の禄を得ることを不義とし、貧しくとも不正の食を拒み、飢えても腐った李の実を食べて凌いだ。楚王が相に招こうとしたが、妻の「乱世に禄を貪れば命を保てぬ」との忠告を容れ、共に逃れて人の畑仕事で生計を立てた。

田仲批判

  • (韓非子より)宋人屈榖は田仲に「堅くて厚いが穴の無い瓠(ひさご)」を献じ、「盛ることも割ることもできぬ瓠は無用」との譬えで、人に頼らず生きるだけで国に益さぬ田仲の生き方を批判した。

趙威后の民本思想

  • (戦国策より)斉王の使者に対し趙威后は、まず「歳(収穫)・民・王」の順で安否を問い、使者が王への礼を欠くと咎めると「収穫や民あってこその君主」と反論した。さらに斉の隠士鍾離子・葉陽子・北宮の女嬰児子ら民を助ける人物が用いられぬことを憂え、無用の徒である於陵子仲がなお生かされていることを難じた。