斉・燕・趙をめぐる駆け引き
- (戦国策より)斉と燕が権の地で交戦した際、秦は魏冉を趙に遣わし燕への援軍を促したが、薛公は趙の李向に「燕を助ければ趙自らが疲弊するだけ」と説き、静観して斉燕双方の疲弊を待つべきと献策した。また別の戦いで燕が趙の不援護に苦しんだ際、噲子が斉に領地を提供して援軍を得る策を燕王に進言し、趙もこれを知って援軍を出した。
蘇秦の出仕まで
- (史記より)蘇秦は東周洛陽の人。斉に赴き鬼谷先生に師事したが、遊学に何年もかけながら困窮して帰郷し、家族に商工の道を棄てたことを笑われた。恥じて閉じこもり、周書『陰符』を得て一年かけて読み込み、「これで当世の君主を説けよう」と自信を得た。まず秦の恵王を説こうとしたが、時あたかも商鞅が誅されたばかりで、恵王は弁士を疎んじ用いなかった。
秦での失敗と発憤
- (戦国策より)蘇秦は秦恵王に「天府の国たる秦の力をもって諸侯を併呑し帝たるべし」と連衡の策を説いたが、恵王は「毛羽未だ成らざれば高く飛ぶべからず」と退けた。十度上書しても用いられず、黒貂の裘は破れ黄金百斤を使い果たし、落魄して帰郷。妻は機織りをやめず、嫂は炊事もせず、父母も口をきかなかった。蘇秦はこれを恥じ、夜『太公陰符』を取り出し眠気を覚ますため錐で自らの股を刺しながら一年をかけて弁論術を体得した(「錐刺股」の故事)。
合従の遊説(燕・趙)
- (史記・戦国策より)蘇秦はまず燕文侯を説き、燕が趙という盾のおかげで秦の侵攻を免れている実情を指摘し、趙との合従を勧めて容れられた。文侯の支援を得て趙に赴くと、時の宰相奉陽君は既に死しており、蘇秦は趙肅侯に「斉秦いずれと結んでも民は安んじない。六国が合従して秦に当たれば函谷関を越えさせずに済む」と説き、洹水での六国盟約の具体案(各国が相互に援軍を出す取り決め)を示した。趙王はこれを容れ、車馬金帛を与えて諸侯を回らせた。
合従の遊説(韓・魏・斉・楚)
- (史記より)韓宣恵王には「韓の精兵と名剣をもって秦に膝を屈するは『鶏口となるも牛後となる勿れ』の諺に反する」と説き、魏襄王には「衡(連衡)を説く臣は姦人であり、魏の兵力は秦に劣らぬ」と説き、斉宣王には「臨淄の富強をもって西面して秦に事えるは恥である」と説き、楚威王には「楚秦は両立し得ず、従親して秦を孤立させよ」と説いた。いずれの国も蘇秦の弁舌に応じ、六国は合従して力を合わせることとなった。
合従の成立と蘇秦の栄達
- (史記より)蘇秦は従約長となり六国の相を兼ね、趙王への復命の途上、洛陽を通過すると周顕王も畏れて道を清め、かつて冷淡だった嫂も蛇のように這って詫びた。蘇秦は「貧賤なれば父母も子とせず、富貴なれば親戚も畏れる」と喟然として嘆じ、千金を宗族朋友に分け与え、かつて世話になった者へ悉く恩を返した。合従の成立により秦は十五年、函谷関を出て攻めることができなかったという。
合従の瓦解
- (戦国策より)秦恵王は寒泉子に「蘇秦の合従は虚言だ」と憤り、武安子(公孫衍)を遣わそうとしたが、寒泉子は「城攻めには武安子、諸侯への対応には張儀を」と勧め、恵王はこれに従った。
- (史記より)秦は犀首を用いて斉魏を欺き趙を攻めさせ、合従を破ろうとした。趙王に責められた蘇秦は燕に逃れ、合従はここに解けた。趙は斉魏の攻撃に対し黄河の水を決壊させて防いだ。
- (戦国策より)蘇秦が秦への使いで三日も謁見を得られなかった際、木の精が泣きも笑いもする譬え(苦しい役目を負わされる者の嘆き)を引いて自らの立場を訴えた逸話を記す。
- (史記より)秦の公子卭(卬)が魏の龍賈を破り八万を斬首したことも合従瓦解の一因として付記される。
燕での諜報活動と最期
- (戦国策より)燕文公の死後、斉が喪に乗じて燕の十城を奪った際、蘇秦は斉王に「弔問と祝賀が相次ぐ理由」を説き、「燕の十城を返せば秦の怒りを免れ、燕・斉双方の恩を得られる」と説得し、斉はこれに従い十城を返還した。
- (戦国策より)蘇秦を信用ならぬ人物と燕王に讒言する者があったが、蘇秦は「毒酒をこぼした侍女が忠義ゆえに罰せられた譬え」を引き、自分の忠信が却って疑いを招く道理を説き、燕王を納得させた。
- (史記より)燕易王の母(文侯夫人)と蘇秦が密通し、発覚を恐れた蘇秦は「燕に留まるより斉で燕のために働く方が燕を重んじさせる」と偽って出奔、斉に入り客卿となった。斉宣王の死後、湣王に厚葬・宮室造営など浪費を勧めて国力を消耗させ、燕のために斉を弱らせようとした。斉の大夫らの嫉妬により刺客に襲われ瀕死となった蘇秦は、死に際し「我を燕のために斉で乱を為した者として車裂きにせよ」と斉王に献策、これにより真犯人があぶり出され誅殺された。後に蘇秦の燕への内通が露見し、燕は斉の報復を恐れることとなった。
- (太史公曰より)蘇秦兄弟三人は皆遊説を業とし名を顕したが、蘇秦は謀反の嫌疑を反間の計に利用され死に、世はその術を笑い忌み嫌った。しかし一介の民から身を起こし六国を合従させた智謀は人に過ぎるものがあったとして、その行状を時系列に整理し悪評のみに埋もれさせぬよう記したとする。
附記(趙人評)
- (戦国策より)張相国に対し、ある者が「膠漆の粘りも遠くを結べず、鴻毛の軽さも自ら舞い上がれぬが、清風に乗れば四海を巡る」の譬えを引き、強国趙との友好を軽んずるべきでないと説き、張相国はこれを容れて以後趙を称賛するようになったという逸話を付す。