越王の世系
- (越絶書より)夫鐔以前の代は久遠にして紀し難く、夫鐔の子允常、その子句踐に至って大いに覇を称え瑯琊に遷都した。句踐から与夷・子翁・不揚・無彊まで代々「霸」を称えたが、無彊は楚威王に滅ぼされ、その子之侯以下は「君長」を称するに過ぎぬ弱小勢力となり、親の代に楚に敗れて南山に走った。句踐から親まで八君、瑯琊の都は二百二十四年続いた。
- (史記より)句踐以降、鼫與・不夀・翁・翳・之侯・無疆と続く越王の世系を記す。『竹書紀年』には内紛による弑逆(太子諸咎による翳弑殺、寺區による莽安弑殺など)を含む異伝が付記される。
雍門子狄の忠死
- (説苑より)越の軍が斉に迫った際、雍門子狄は「かつて車右が王の車の轂の音を恥じて自刎した故事」を引き、越の侵攻という王の恥をそのままにできぬとして自ら刎頸した。越軍はこれに感じ入り兵を退いた。斉王は上卿の礼で子狄を葬った。
越の内紛
- (呂氏春秋より)斉の荘子が越討伐を諮ると、和子・鴞子は「先君の遺言『越は猛虎ゆえ攻めるな』は今も有効、死んだと見せても油断すべきでない」と諫めた。
- (呂氏春秋より)越人が三代続けて君主を弑逆したため、越に嫌気がさした王子捜が丹宂の洞穴に逃げ隠れ、民が艾で燻し出して無理に王位に就かせた故事、また越王授の四子をめぐる後継争いで弟の豫が国人の怒りを買い逐われた故事を記す。
越の忠義譚(附記)
- (韓非子より)公孫弘が越王のために断髪して騎乗を務め、公孫喜との義絶問答で「髪を断つ我と首を断つ汝、共に主のために戦う」と応じ、周南の戦いで公孫喜が戦死した逸話を記す。
楚威王による越の討滅
- (史記より)越王無疆の時、越は北の斉・西の楚を伐って中原と覇を争おうとした。斉威王の使者は越王に「魏・韓が楚と直接戦わずとも、その圧力だけで楚は疲弊する。今こそ楚を攻め、覇を求めるべきだ」と説き、越はこれに従って斉討伐をやめ楚を攻めた。楚威王はこれに応じて大挙出兵し越を大破、王無疆を殺して旧呉の地から浙江以北までを併呑、さらに斉を徐州で破った。越はこれにより諸族に分裂し、江南・海上に散って楚に服属した。
威王の事跡(附記)
- (戦国策より)楚威王が莫敖子華に「先君以来、爵禄を求めずして社稷を憂えた臣はいたか」と問うと、子華は令尹子文(清貧を貫き社稷を憂えた)・葉公子髙(白公の乱を鎮め封禄を高くされた)・莫敖大心(柏挙の戦いで身を捨てて奮戦した)・棼冒勃蘇(呉軍侵攻の急を秦に訴え七日七夜歩き通し援軍を得た)・蒙榖(郢陥落の際に典籍を守り抜きながら封禄を固辞し隠棲した)の五人の事跡を挙げ、いずれも爵禄のためでなく社稷のために尽くした忠臣であると答えた。威王は「今にこのような人物がいようか」と嘆いたが、子華は霊王が細腰を好んだ故事を引き、王が真に賢を好めばこの五臣のような者は必ず現れると答えた。