繹史齊の田忌・孫臏、魏を破る(齊田忌孫臏破魏)

南轅北轍の諫言

  • (戦国策より)魏恵王が邯鄲を攻めようとした際、季良は「楚へ行くと言いながら北へ馬を走らせる者」の譬えを用い、覇業を望みながら邯鄲を攻めるのは目的から遠ざかる愚行であると諫めた。

桂陵の戦い

  • (史記より)魏恵王十七・十八年、魏が邯鄲を包囲・攻略。趙は斉に救援を求め、斉威王は群臣と協議、段干朋が「趙を直接救うより、魏の襄陵を攻めて疲弊させ、邯鄲陥落後に乗じるべき」と献策し、威王はこれを採った。その後、成侯騶忌と田忌の不仲により、公孫閲が騶忌に「田忌に魏討伐を勧めれば勝てば功、負ければ死か失脚で除ける」と入れ知恵し、威王は田忌に襄陵攻めを命じた。斉は魏を桂陵で大破し、諸侯に対して王を称するまでに至った。
  • (史記より)孫臏はかつて龐涓と共に兵法を学んだが、魏に仕えた龐涓は自分より優れた孫臏を妬み、刑罰で両足を切り黥面させて隠そうとした。斉の使者が密かに孫臏を斉へ連れ帰り、田忌が客分として遇した。田忌と諸公子の競馬で、孫臏は「下駟で上駟に、上駟で中駟に、中駟で下駟に当てよ」と助言し勝たせた(田忌賽馬)。以後、威王に推挙され軍師となる。趙の急を受け、孫臏は「大梁を衝いて趙の囲みを解かせる」策(囲魏救趙)を献じ、田忌はこれに従い桂陵で魏軍を大破した。
  • (戦国策より)楚の昭奚恤・景舎による援趙論争(楚が趙を助けず魏を強くすべきか、少数の援軍で趙魏を共に疲弊させるべきか)を記す。景舎の策が採られ、楚は趙を援け邯鄲陥落後に睢濊の地を得た。
  • (戦国策より)梁が邯鄲攻めに宋の援軍を求めた際、趙王と宋使者が水面下で調整し、宋は形だけ趙の一城を包囲するに留め、双方の顔を立てて兵を退かせた故事を記す。
  • (史記より)魏恵王十九・二十年、諸侯が魏の襄陵を包囲し、魏はついに趙の邯鄲を返還して漳水上で盟を結んだ(桂陵の戦いの結び)。

田忌の失脚と復位

  • (史記より)斉威王三十五年、公孫閲は騶忌に、占い師を買収して「田忌が三戦三勝の勢いで大事を謀るか」と占わせ、それを王に密告させる策を授けた。田忌はこれを知り臨淄を襲うが敗れて出奔した。翌年威王が薨じ宣王が立つと、魏の南梁攻めに際し田忌は召し戻され旧位に復した。

馬陵の戦い(南梁の役)

  • (戦国策より)魏恵王が太子申を将として斉を攻めた際、客が公子理の傅に「王太后に泣訴させ出兵を止めさせよ」と献策した逸話、また外黄の徐子が太子に「勝っても魏を得るに過ぎず、負ければ魏を失う」と説き、太子は帰還を望んだが従者たちに阻まれ、そのまま戦って戦死した逸話を記す。
  • (戦国策より)韓が魏に攻められ斉に救援を求めた際、田侯(威王)は群臣と協議、張丏は「早く救うべき」、田臣思は「韓魏が疲弊するのを待ち、恩を売って重んじられる方が得策」と説き、後者が採られた。韓は五戦五敗の末に斉へ助けを求め、斉は魏を馬陵で大破、魏は韓に敗れて弱体化し、三晋の君主は斉に朝することとなった。
  • (史記より)魏・趙が韓を攻め、韓の急を受けた斉は田忌を将として大梁へ直進、龐涓は韓から撤退し斉軍を追う。孫臏は「三晋の兵は斉を臆病と侮っている」として、斉軍の炊事の竈を日ごとに減らして見せかけ、龐涓を誘い込んだ。孫臏は龐涓の行軍を予測して馬陵に伏兵を敷き、大樹に「龐涓死於此樹之下」と書いて標とした。龐涓は夜これを読もうとして万弩の一斉射撃を受け、魏軍は大乱、龐涓は自刎し「遂に豎子の名を成さしむ」と嘆いた。魏太子申は捕虜となり、孫臏の兵法は天下に知れ渡った。

田忌の再度の失脚(戦国策の異伝)

  • (戦国策より)成侯鄒忌と将軍田忌の不和から、公孫閈が鄒忌に「田忌に魏討伐を勧め、勝てば手柄、負ければ罪に問える」と献策し、田忌が三戦三勝すると占い師を買収して謀反の噂を流させ、田忌は出奔した(史書の記述とは経緯が異なる異伝)。
  • (戦国策より)田忌は孫子に大事(斉への反攻)を持ちかけられるが従わず、そのまま魏には入らなかった。

説苑・戦国策に見る田忌の亡命

  • (説苑より)田忌は斉を去り楚に亡命。楚王が斉との比較を問うと、田忌は斉の将軍(申孺・田居・眄子)の人物評からそれぞれの結末(大敗・分裂・辛勝)を予言し的中させた逸話を記す。
  • (戦国策より)鄒忌は田忌が楚の力を借りて斉に復帰することを恐れたが、杜赫が楚王に「田忌を江南に封じて帰国の意志なきことを示せば、鄒忌は斉を厚遇し、田忌も楚に恩義を感じる」と説き、楚は田忌を江南に封じた。

徐州の役

  • (戦国策より)馬陵で斉が魏を大破した後、魏恵王は恵施の勧めに従い斉に朝見して楚を挑発する策を取った。田嬰はこれを容れて斉魏並朝としたが、張丑は反対した。楚はこれに怒って自ら出兵し、趙と共に斉を徐州で大破した。
  • (史記より)斉の孟嘗君の父田嬰が楚を欺いたため楚威王が斉を徐州で破り、田嬰の追放を要求したが、張丑の弁で楚王はこれを取りやめた。
  • (戦国策より)楚が斉を伐とうとした際、魯が斉に親しんでいたため、張丏が魯君を説いて中立を保たせた逸話、また斉楚の争いに宋が中立を求めた際、子象が楚のために宋王を説いた逸話を記す。