繹史衛鞅、秦の法を変える(尸佼)(衛鞅變秦法(尸佼附))
- 履歴: 衛鞅(公孫鞅、商鞅)は衛の公族庶出の子で姓は公孫。魏の宰相公叔痤に仕え中庶子となる。痤の死後、秦孝公の求賢令を聞いて入秦し、寵臣景監を介して謁見。三度目にようやく覇道を説いて用いられ、変法を主導して左庶長・のち大良造に進む。前340年頃、魏を欺いて破った功により商・於の十五邑を与えられ商君と号す。孝公の死後、太子(恵王)側の反感を受け、公子虔らの告発で逃亡するも自らの定めた法のため宿を得られず、商邑で挙兵して敗死、車裂に処され一族も滅ぼされた(前338年頃)。
秦の内乱と献公・孝公の即位
- (史記より)秦の出子二年、庶長が霊公の子を河西より迎えて献公に立て、出子とその母は殺された。その後、晋が秦の河西の地を奪う混乱があった。献公は元年に殉死を止め、二年に櫟陽に築城・遷都し、十八年には櫟陽に金が雨のように降ったという。二十一年、晋と石門で戦い斬首六万、天子より祝賀を受けた。二十四年に献公が薨じ、子の孝公が二十一歳で立った。
- (史記より)孝公元年、周室が衰え諸侯が争う中、秦は僻地の雍州にあって中原の会盟に与れず夷狄として扱われていた。孝公は恵みを布き孤寡を振い戦士を招き、先君穆公の覇業を回復すべく賢者を求める令を国中に下した。この令を聞いた衛鞅が景監を通じて謁見を求めた。
出仕の経緯(衛鞅、魏より入秦)
- (戦国策より)魏の公叔痤は病床で恵王に公孫鞅の登用を勧めたが容れられず、痤は退出後、王が用いぬなら鞅を殺すよう進言していた。痤の死後、鞅は秦へ入り孝公に用いられ、秦は日に強く魏は日に削られた。論者はこれを恵王の不明のゆえとする。
- (史記より)同じ逸話をより詳しく伝える。痤は臨終で恵王に鞅の登用か誅殺かを迫ったが、恵王はどちらも聴かず立ち去った。痤は鞅にも早く逃げるよう勧めたが、鞅は「王は君の言を用いて我を任じることも殺すこともしないだろう」と動じなかった。
孝公との対面と変法の決定
- (史記より)鞅は景監を介して孝公に謁見。初め帝道を説いて眠られ、次に王道を説いても用いられず、三度目に覇道を説いて初めて孝公の意にかない、重用されるに至った経緯を記す。二年目に天子より胙が届き、三年目に衛鞅が変法・耕戦奨励を説き、甘龍・杜摯らの反対を押し切って施行、当初は民が苦しんだが三年で便宜を得て左庶長を拝命した。
- (商子・更法より)孝公は公孫鞅・甘龍・杜摯の三大夫と変法の是非を議論する。鞅は「疑行に成無く疑事に功無し」「三代は道を同じくせずして王たり、五覇は法を同じくせずして覇たり」と述べ、時勢に応じた法改正の正当性を説く。甘龍・杜摯は旧法墨守を主張するが、孝公は鞅の説を採り墾草令を出す。
墾草令の要旨
- (商子・墾令より)遊食の民・商業を抑制し農耕を専らにさせる二十余条の施策(爵位を軍功に限る、商人の穀物売買を制限する、酒肉に重税を課す、大臣・貴族の私的な使役を禁じる、諸県の統治様式を画一化するなど)を列挙し、いずれも「草必ず墾けん」(未墾の地が開かれる=富国強兵につながる)という結語で締める。
変法の実施と統一
- (史記より)什伍連坐制を定め、告発せぬ者は腰斬、姦を告げた者は敵の首を斬った者と同等の賞、匿った者は降伏者と同罰とする。軍功による爵位制、農桑に励む者への免税、商業や怠惰による貧困者は奴婢とすること、宗室も軍功なくば属籍を得られぬこと等を定めた。令の信を示すため都の南門に木を立て徙した者に賞金を与える「徙木立信」の故事を行い、施行後十年で道に落し物を拾わず山に盗賊無き治世となった。太子が法を犯した際、鞅は「法の不行は上より之を犯すに由る」として太子の傅公子虔を刑し、師公孫賈を黥した。その後、令に不便を言っていた民も便を言うようになったが、鞅はこれを「乱化の民」として辺境に遷した。功により大良造となり魏の安邑を攻め降した。
- (史記より)その後、咸陽に冀闕・宮庭を築いて遷都し、父子兄弟の同室居住を禁じ、小さな郷邑を統合して三十一県を置き令丞を配し、阡陌を開き封疆を廃して賦税を平らにし、度量衡を統一した。施行四年目、公子虔が再び禁を犯し劓刑に処された。五年目には秦が富強となり天子より胙を賜り諸侯も祝賀した。
商子諸篇の要旨
- (商子・農戦より)国を興すのは農戦のみであり、詩書・弁舌・技芸で立身しようとする風潮は国を弱め土地を荒らす元であると説く。農戦に民の心を一つに帰せしめることが治国の要諦であるとする。
- (商子・去彊より)強を以て強を去れば弱く、弱を以て強を去れば強し、重刑軽賞・農戦専一の統治で国力が増すとする一連の逆説的な統治論。境内の人口・穀物・兵力等「十三数」を把握しないままの強兵策は失敗すると説く。
- (商子・開塞より)上世は親親、中世は上賢、下世は貴貴を尊ぶというように時代に応じ統治原理は変遷してきたとし、法による統治こそ時勢に合致すると論じる。刑を用いて刑を去るという逆説(以刑去刑)を説き、秦の新民招致策(三晋の民を秦へ誘致し復除する策)にも言及する。
- (商子・賞刑より)「一賞・一刑・一教」を国是とすべきとし、晋文公が寵臣顛頡を刑した故事、周公が管叔を誅し霍叔を流した故事を引いて、身分を問わぬ厳正な刑罰の徹底こそ治国の要とする。
- (商子・畫策より)法によって民を治めることの正当性を、黄帝・神農の時代の変遷になぞらえて説き、戦を尊ぶ気風を作ることが国を富ませ民を富貴に導く道であるとする。
(編者按)商子・開塞篇末に「篇内に鞅の死後の事が多く記されており、商子本人の著作ではない」との按語が付されている。
対魏戦争と封侯
- (史記より)秦二十二年、衛鞅は魏を撃ち公子卬を捕虜とした。かねて交誼のあった公子卬に会盟停戦を持ちかけ、油断させて伏兵で捕らえ魏軍を大破した。魏は河西の地を割いて講和し安邑から大梁へ遷都、恵王は「公叔痤の言を用いなかったことを悔いる」と嘆いた。鞅はこの功により商・於の十五邑を与えられ商君と号した。
- (呂氏春秋より)同じ逸話をより詳しく伝え、鞅が魏在住時代から公子卬と親しかったことを利用し、和議を口実に油断させて捕らえた欺瞞の経緯を記す。孝公薨去後、恵王は鞅のこの行いを疑いの理由の一つとし罪に問うた。
韓非子・戦国策に見る評価
- (韓非子より)商君は連座制・告発制、詩書を焼き法令を明らかにすること、私門への請託を塞ぎ公家への奉仕を優先させること、遊説の民を禁じ耕戦の士を顕彰することを孝公に説いた。孝公はこれを八年行い国を富ませ強めたが、薨後、商君は車裂に処された。
- (戦国策より)商君の治世は法令が公平で私情に流れず、太子の傅すら黥劓に処すほど厳正であった。道に落し物なく民は妄りに物を取らず兵は強大化したが、刻薄寡恩であったともいう。孝公の死後、恵王の側近が「秦の婦人や子供までもが商君の法を語り、王の法を語らぬ」と讒言し、商君は帰国途中で捕らえられ車裂に処されたが、秦人は誰も憐れまなかった。
商君の最期(趙良との問答)
- (史記より)商君が秦相となって十年、宗室貴戚の怨みを買う中、趙良との問答が行われる。趙良は商君に対し、五羖大夫(百里奚)が民に慕われ死を悼まれたのに対し、商君は寵臣景監を頼りに立身し、太子の師傅を刑し、厳酷な法で民の怨みを積んだと諌め、封邑を返上して隠退するよう勧めた。商君はこれに従わなかった。
- (史記より)五ヶ月後、孝公が薨じ太子(恵王)が立つと、公子虔の一派が商君の謀反を告発。商君は逃亡するが、自らの法により証のない旅人を泊めることが禁じられていたため宿を得られず、「法を為すの弊、一に此に至るか」と嘆いた。魏へ逃れようとするも、かつて公子卬を欺いた恨みから拒絶され、やむなく秦の商邑に戻り挙兵するが敗死。恵王は遺体を車裂に処し、一族も滅ぼされた。
- (史記・太史公曰より)商君を「天資刻薄」の人物と評し、帝王の術を説きながら寵臣に頼って仕官し、公子虔を刑し公子卬を欺くなど、趙良の諫言にも耳を貸さなかったことをもって、その恩薄きことの証とする。
新序の評
- (新序より)秦孝公は崤函の険を保ち雍州を広げ、河西を併せ上郡を収め、戦国の覇者となった。これは商君の謀による所が大きく、農戦の奨励・信賞必罰の徹底により法令が行われたが、斉桓公・晋文公のような信義を欠き、公子卬を欺いたことで諸侯の信頼を得られなかったと批判する。渭水のほとりで一日に七百余人を処刑し血で川が赤く染まったという酷薄さを挙げ、恵王による誅殺自体は不当としつつも、寛平の法を用いていれば覇者の佐たり得たであろうと評する。
尸佼の付記
- (尸子より)尸佼は魯の人で秦の相商君の師であり、鞅の死後は蜀へ逃れたと伝える。以下に引かれるのは『尸子』の断片的な語で、陰陽・四季の徳、日月星辰の比喩、賢者登用の心得、剣・玉の鑑定、義と勇の逸話など、商鞅とは直接関わらない雑纂的な箴言が並ぶ。末尾近くの一節には文意が前後と繋がらないとの注記がある。