繹史魏惠王、国を治め兵を談ず(恵施)(魏惠王、国を治め兵を談ず(惠施の魏に相たるを附す))

  • 履歴: 魏恵王(罃、在位BCE369年頃-BCE319年頃)は武侯の子。即位当初は太子争いによる内乱で危うく国を分割されかけたが免れ、後に大梁に遷都し「梁恵王」とも呼ばれた。度重なる戦で国力を消耗し、晩年は恵施を宰相として国政を委ねた。

即位をめぐる内乱

  • (史記より)武侯の死後、恵王(子罃)と公中緩が太子の座を争った。公孫頎の進言で韓・趙が連合して魏を攻め、濁澤で大敗させたが、魏を分割するか処遇するかで韓・趙の意見が一致せず、両国は兵を退いた。この不和のおかげで恵王は生き延び、魏の分裂も免れたと評される。
  • 即位後も三晉・斉・秦との戦で敗北が続き、国力は消耗した(『竹書紀年』の割注に詳しい年次記事あり)。

公叔痤の謙譲

  • (戦国策より)韓・趙との戦で勝利した将軍公叔痤は、恵王からの厚い恩賞を辞退し、勝因は呉起の遺教や部下(巴寧・爨襄)の功であるとして、自らへの賞を彼らに分け与えるよう求めた。王はこれを称え、公叔痤にはさらに多くの田を加増した(老子の「与えるほどに己はますます富む」の言を体現した逸話として引く)。

諸国との交わり

  • (戦国策より)范台での宴で魯君が、酒・美食・美色・高台などによって国を滅ぼした古の君主の例(禹・斉桓公・晋文公・楚王)を引き、恵王がこれら全てを兼ね備えていることを暗に戒めた。
  • (呂氏春秋より)恵王が韓(鄭)の後継者を封じようとした際、公子食我が「かえって韓を貶める行為だ」と論破し、恵王を辞めさせた。
  • (韓非子より)魏が韓(鄭)の併合を持ちかけた際、鄭の公子が「では我が国も梁の併合を望む」と切り返し、話を頓挫させた。天子への昇格を企てた恵王の盟に対しても、小国が大国に利用されるだけだと諫める声があった。

尉繚子の兵論(恵王への進言として引用)

  • (尉繚子より)「天官」篇は、吉凶の日取りより人事(城の堅固さ・兵備の充実)が勝敗を決すると説き、武王の牧野の戦いなど、天の巡り合わせに反した陣立てでも勝った例を挙げる。
  • 同・「兵談」「兵議」「治本」「兵令」諸篇は、土地と人口・食糧の均衡、将たる者の独立した権限、無用な城攻めや殺戮を戒める仁政的軍事観、市場の機能を軍需に活かす発想、農戦一致の国家経営など、富国強兵の具体策を体系的に論じる。(いずれも兵法書からの引用で、要旨のみをまとめる。)
  • 同・「将理」篇は、裁判の公正さ(拷問による自白の弊害)を説き、国政と獄訟の乱れが軍の弱体化に直結すると論じる。

卜皮の諫言

  • (韓非子より)恵王が自らの評判(慈恵)を誇ったところ、卜皮は「慈は誅罰を怠らせ、恵は功なくして賞を与えることになり、いずれも国を亡ぼす」と辛辣に答えた。

恵施の登用と弁舌

  • (説苑より)恵子(恵施)が梁の宰相にと望んで河を渡る際に溺れかけた話を、船頭に「あなたも自分の得意なことしかできまい」と切り返した逸話(西閭過の類似の逸話も付す)。
  • (呂氏春秋より)恵子が制定した法を民が善しとしたが、翟翦は「大木を運ぶ掛け声のように、皆に受け入れられることと実行できることは別だ」と諫めた。
  • (戦国策より)恵施が斉・魏の交渉役として力を発揮し、楚王からも一目置かれた逸話。
  • (説苑より)恵子は比喩を用いた弁論を得意とし、梁王に「比喩を使うな」と求められた際、彈(弾弓)の説明を例に、比喩なくして未知のものを理解させることはできないと反論した。
  • (呂氏春秋より)白圭が恵子の弁舌の強引さを新婦の作法に喩えて批判したのに対し、恵子は「愷悌の君子」の詩を引いて反論した。また、恵子の言が「役に立たないが美しい」と評されたのに対し、恵子は「役に立たないように見えるものにも用途がある」と切り返した。
  • 同・匡章が恵子を「働かず食う蝗螟」に喩えて批判したが、恵子は「城を築く際に測量を担う者のように、自分は治国の要(本)を担っている」と応じた。恵王時代の戦の敗北の多さや国力衰退についても付記される。
  • 同・匡章が「尊を去るという学説を説きながら斉王を王と称えるのは矛盾では」と問うたのに対し、恵子は「愛児の頭を守るため石で身代わりにするように、民の命を救うために斉王に王号を勧めた」と答えた。
  • 同・恵王が国を恵子に譲ろうとした逸話。恵子は、布衣の身で万乗の国を辞退することがかえって貪欲を戒める効果を持つと説いて固辞した。

讒言と危機

  • (戦国策より)龎葱が「三人が市に虎ありと言えば人は信じる」との喩えで讒言の恐ろしさを恵王に説いたが、龎葱の不在中に讒言が先行し、太子は結局王に見えられなかった。

荘子に見る恵施の逸話

  • (荘子より)田侯牟の背信に怒った魏瑩(恵王)が刺客を送ろうとした際、犀首・季子・華子がそれぞれ異なる立場から諫めたが、いずれも決めかねた。恵子の推挙した戴晉人が「蝸牛の左右の角に国を構える触氏と蛮氏の戦い」という寓話で、天地の広大さに比べれば人間界の争いは些細なものだと諭し、恵王は思わず我に返った。
  • (韓詩外伝より)戴晉生が粗末な身なりで恵王を訪ね、「沢の雉は自由でこそ輝くが、籠の中では餌に満ちても志気が衰える」との喩えで、士を厚遇するだけでは真に士を尊ぶことにならないと諭し、去って二度と戻らなかった。

大梁遷都

  • (史記より)秦・斉・趙の圧迫を受け、恵王31年(治世後半)に安邑から大梁へ遷都した(『竹書紀年』の割注に年次の異同あり)。

恵王の葬送と恵子の進言

  • (戦国策より)恵王の葬送が大雪で難航した際、群臣は日を改めるよう太子に勧めたが太子は聞き入れなかった。恵子は周の文王が父王季の葬儀を延期した故事を引いて説き、太子はこれに従って葬送の日を改めた。恵子はこの機知により、単に説を成しただけでなく、文王の義を天下に示す大きな功を挙げたと評される。