- 履歴: 斉威王(田因斉、在位BCE356年頃-BCE320年頃)は戦国斉の君主。即位当初は政治を大夫に任せて放縦であったが、後に賞罰を厳明にし、鄒忌・淳于髠らを用いて国政を立て直し、諸侯に威を示す強国とした。
即位当初の劣勢(史記)
- 即位元年、三晉が斉の喪に乗じて霊丘を攻め、六年には魯・晋、七年には衛、九年には趙が相次いで斉領を侵した。
淳于髠の諷諫
- (説苑より)楚魏が斉討伐を謀った際、王の問いに三度笑って答えなかった淳于髠は、「僅かな供え物で豊作を願う隣人の祭を見て笑った」との喩えで、王の対応が乏しいことを暗に諷し、王は千金・革車百乗を賜って上卿とした。(この逸話は同書に二度記されており、贄の内容や結末に細部の異同がある。)
- 同・楚が兵を発した際、淳于髠が趙に援軍を求めた場面でも同様に「供物は少なく望みは大きい」との寓意で援軍増額を促し、楚軍は夜のうちに撤退した。威王は喜び、酒宴で「一斗で酔うのに一石飲めるのはなぜか」と問い、淳于髠は場に応じて酒量が変わる(畏怖・私情・宴の乱れなど)ことを説き、「酒極まれば乱れ、楽極まれば悲しむ」との言葉で長夜の宴を諫めた(酒はいくらでも飲めるが、程度を過ぎればすべて凶事に至るという教え)。
賞罰の刷新
- (史記より)即位九年、諸侯の侵攻を受けても放埒だった威王は、即墨大夫(治績はよいが賄賂で悪評を流された)を賞し、阿大夫(治績は悪いが賄賂で好評を得ていた)とこれを誉めた左右の者を共に処刑した。以後、斉国は震え粛み、諸侯も斉を侵さなくなった。
- (列女伝より)虞姫が佞臣周破胡の専横を訴えたところ、破胡は虞姫が北郭先生と通じていたと讒言して陥れようとしたが、王が自ら取り調べ、虞姫の無実と忠言が明らかになり、破胡を誅して即墨大夫を封じ、国政を立て直した(史記の逸話とほぼ同旨の異伝)。
司馬穣苴の兵法
- (史記より)威王は用兵に威を行き渡らせ、古の司馬(軍政官)の兵法を大夫に論じさせ、これに穣苴の説を加えて『司馬穣苴兵法』と称した。
- (司馬法より)仁本篇は「仁を本とし義を以て治める」ことを軍事の大原則とし、戦争は民を安んじるための已むを得ない手段であるとする。時節・喪凶を避けて民を思いやる用兵、追撃や勝敗の際の礼節(深追いしない・降伏者を害さない)を説く。
- 同・天子之義篇は、天子・士庶それぞれの分に応じた義、教化による貴賤・徳義・材技の秩序、軍と国それぞれの容儀の違い、夏殷周三代の軍制・旗章・賞罰の変遷(夏は朝で賞し殷は市で戮す等)を体系的に述べる。
- 同・定爵篇は、戦の際の爵位・功罪の定め方、五慮(順天・奉時阜財・因敵懌衆・利地・右兵)、五兵の使い分け、士気・軍紀・信義の重要性など、実戦における統率の要諦を列挙する。(いずれも兵書の体系的教説であり、詳細な条項は要旨のみ記す。)
淳于髠の諷諫(戦国策)
- 斉が魏を討とうとした際、淳于髠は「犬と兎が疲れ果てて共倒れになり、農夫がその功を横取りする」という寓話(韓子盧と東郭逡)を引き、斉魏が争えば秦楚が漁夫の利を得ると諫めて出兵を中止させた。
- 魏が淳于髠に璧・馬を贈って斉の攻撃回避を頼んだ際、淳于髠は「魏は斉の同盟国であり、これを討てば楚のみが利する」と説いて攻撃を止めさせた。賄賂を受けた疑いをかけられても、「利益にならぬ策を取り消させたことに変わりはない」と応じた。
将軍章子の忠誠
- (戦国策より)秦の侵攻に応じ将軍章子が旗印を偽装して秦軍に紛れた際、章子が寝返ったとの報告が三度あったが、威王は動じず、結果は斉軍の大勝であった。理由を問われた王は、章子が父の遺志(母の改葬を許さなかった父の教え)を守り続ける孝子であり、その心を欺くはずがないと見抜いていたと語った。
鄒忌の登用
- (史記より)鄒忌は琴の音を治世に喩えて威王に説き、これを機に登用され、三月後に相印を受けた。淳于髠が寓意に富む五つの問いを投げかけたが、鄒忌はことごとく的確に応じ、淳于髠は「この人はほどなく封じられるだろう」と評した。後に下邳に封じられ成侯と号した。(新序の割注に、鄒忌が稷下の淳于髠ら七十二人の挑発にも動じず応対した逸話を付す。)
- (戦国策より)鄒忌が自らの美貌を巡り妻・妾・客の追従に気づき、「私を美と言う者はみな私利を図っている」と悟った故事から、威王に諫言の道を開くよう勧めた。威王が諫言に賞を与えたところ、初めは諫言が門前市の如く集まり、やがて改まるべき点が尽きて諫言も絶えるほどに国政が整い、諸侯もみな斉に朝したという(「戦わずして朝廷で勝つ」の逸話)。
賢臣登用による富国
- (説苑より)成侯(鄒忌)の華美な出仕ぶりを見た威王が問うと、成侯は自ら西河・南城・冥州・即墨・大士に賢者(田居子・田觧子・黔涿子・田種首子・北郭刁勃子)を登用したことで諸国が服し民が富んだ経緯を説明した。
- (史記より)魏恵王が徑寸の珠十枚を国宝と誇ったのに対し、威王は南城・髙唐・徐州・盗賊防止を任せた四人の賢臣を挙げ、「千里を照らす宝はこれである」と答え、恵王を恥じ入らせた。