繹史呉起、魏に仕え楚の相となる(吳起、魏に仕え楚に相たり)

  • 履歴: 呉起(?-BCE381年)は衛の左氏の人。曽子に学び魯に仕えたのち魏の文侯・武侯に仕えて西河守となり、のち讒言により楚に走って悼王の宰相となった。悼王の死後、反対派に射殺された。兵法家として『呉子』を著したと伝えられる。

魯における逸話

  • (韓非子より)呉起は妻が織った組紐の幅が寸法に合わないことを咎めて離縁し、法を厳格に行う姿勢を貫いた。
  • 同・呉起は友人との約束を守るため、夜遅くまで食事を待ち続けたという。
  • (史記より)魯が斉に攻められた際、斉人の妻を娶っていた呉起は疑いを晴らすため妻を殺して魯の将となり、斉軍を大破した。この行いを猜忍と評する声もあり、若い頃に郷里で自らを謗った者30余人を殺し、母の死にも帰らず曽子に絶交されたことも伝えられる。のち魯君にも疑われ退けられた。

魏における兵法と治績

  • (史記より)魏の文侯は李克の評(貪欲・好色だが用兵は司馬穰苴に劣らない)を聞き呉起を将に用い、秦の五城を攻略した。
  • (呉子より)呉起は文侯に、外見の華美な武具より実戦で活かせる備えの重要性を説き、文侯はこれに感銘して呉起を大将とし、西河守として秦・韓と戦い多くの勝利を収めた。
  • (史記より)呉起は下級兵士と衣食・労苦を共にし、部下の膿を自ら吸い出すなど恩情深い将であったと伝えられる。(説苑の割注に類話あり。)
  • (呉子より)用兵の要諦として、民の和・礼義による統制、五種の兵の性格(義兵・強兵・剛兵・暴兵・逆兵)とその対処法、六国の軍の特質と攻略法、地形や兵の疲労状態に応じた攻撃の時機、将たる者の五つの心得(理・備・果・戒・約)などが体系的に述べられる。
  • 同・厳刑・厚賞よりも士が進んで死を喜ぶ気風を養うことこそが肝要であるとし、武侯が功に応じた宴を設け遺族を厚く遇したところ、秦との戦いで士卒が命令を待たず奮戦し、秦の大軍を破った逸話を収める。

武侯との問答

  • (史記・戦国策より)武侯が西河の険阻を魏の宝と誇った際、呉起は「徳にあり険にあらず」と諫め、三苗・夏桀・殷紂が地の険を頼んで滅んだ例を挙げた。
  • (荀子より)武侯が謀事のたびに群臣が及ばぬことを喜んだのに対し、呉起は楚荘王が同じ状況をかえって国の危うさとして憂えた故事を引き、武侯を諌めた。
  • (荘子より)徐無鬼が武侯に相狗・相馬の喩えで話し、女商の問いに答えて、久しく人に会わぬ者が人恋しさに喜ぶ心理を説いた(呉起の周辺人物の逸話として収める)。同・武侯が「民を愛し兵を偃(や)めたい」と問うたのに対し、徐無鬼は形だけの仁義や偃兵はかえって偽りを生むとし、誠を修めて民を戦から解き放つべきだと答えた。

讒言による失脚と楚への出仕

  • (史記より)魏が相に田文を置いたことに不満を持った呉起が功を比べたところ、田文は「主少なく国が疑心暗鬼の時にこそ自分が重んじられる理由がある」と答え、呉起はこれに服した(呂氏春秋の割注に同旨の異伝あり)。
  • 同・田文の死後、公叔が相となり、呉起を除くため公主との縁談で呉起の本心を試させ、これを機に武侯に疑われた呉起は魏を去って楚に入った。去り際、西河を望んで涙し、讒言により西河が失われることを予見したという。

楚における改革と最期

  • (史記より)楚の悼王は呉起の賢を聞いて即座に宰相とし、法を明らかにし不要の官を廃し公族の疎遠な者を退けて戦士の養成に充てるなど富国強兵の改革を行い、南は百越を平らげ北は陳・蔡を併せ三晋を退け秦を伐つなど楚を大いに強めた。しかし悼王の死後、改革で恨みを買った宗室・貴戚に襲われ、王の屍にすがったところを射殺され、後に王の屍を射た者70余家が誅殺された。
  • (淮南子より)呉起が楚の令尹に就いた際、屈宜若は爵位・俸禄の制度を改める急進策の危うさを説き、天道・人理に逆らう行いは禍を招くと諫めた。
  • (韓非子より)呉起は悼王に、大臣・封君の力が強すぎることが国を弱めているとして三世で爵禄を絶つ改革を進言し、悼王の死後、この改革への恨みから呉起自身が処刑された。
  • (呂氏春秋より)悼王の死に際し、改革で不満を持つ貴人らが王の屍のある堂で呉起を射殺そうとした際、呉起は王の屍に矢が刺さるよう仕向け、「屍を射た者は重罪に処す」という楚の法により、自らを殺した者たちを道連れにしたという最期の機知を伝える。