- 履歴: 子思(孔伋、BCE483年頃-BCE402年頃)は孔子の孫、伯魚の子。宋で困窮した際『中庸』を著したと伝えられ、衛・斉・魯などを遊説した。孟子(孟軻、BCE372年頃-BCE289年頃)は鄒の人で、子思の門人に学び、斉・梁(魏)等の諸侯に仁義の道を説いたが用いられず、晩年は著述と弟子の教育に努めた。
子思の学問観
- (孔叢子より)孔子が子思に「学に励めば家業は廃れない」と語り、子思を安心させた逸話。
- 同・賢を任じられない君主の問いに、孔子は君主が誉毀を賞罰の基準とするため賢者が居つかないと答えた。
- 同・礼楽と管仲の法治の違いについて、孔子は法治は身一代で終わるが礼楽・仁義の効は百世に及ぶと答えた。
- 同・物事の真偽を見極める道について、心の精神(聖)によって数理を推し究めることの難しさを説いた。
宋における困難と『中庸』
- (史記より)子思は宋で困窮した際に『中庸』を作った。
- (孔叢子より)子思が16歳で宋に遊学した際、宋の大夫楽朔と書の価値をめぐり議論となり、感情を害した楽朔の徒に囲まれる事件が起きたが、宋君の救援で難を逃れ、これを機に『中庸』49篇を著したという。
子思の人物評・礼論(孔叢子・礼記)
- 子産と孔子の徳の優劣を問われた子思は、子游の言葉(浸水と膏雨の喩え)を引いて、目に見える恩恵と広く行き渡る徳の違いを説明した。
- 顔回の「夏の暦を行う」問いに関連し、夏・殷・周の暦法の違いを天命・禅譲との関係から説明した。
- 衛にいた子思は、魯穆公の死に服喪すべきか問われ、寄留の臣として旧主に重ねて服すべきでないとの見解を示した。
- 母の喪、旧妻を出した父の例に倣い自らの母(出母)の喪を行わなかった逸話(『礼記』檀弓)。
清廉な処世(孔叢子・説苑)
- 衛に困窮していた子思が、田子方からの贈り物の裘を「妄りに与えるのは溝壑に棄てるに等しい」として辞退した。
- 友人からの粟一車は受けたが、酒樽・肉の贈り物は生活の急を要さぬとして辞退した。
- 衛君が臣下の追従(是非を問わず賛同する風潮)を憂う子思に対し、子思は君主自身が賢を装うことがこの弊の元だと諭した。
- 「わが政に非はないか」と問う衛君に、子思は追従する臣ばかりで諫言する者がいない状態こそ最大の問題だと答えた。
- 河で釣れた大魚(鰥魚)が誘惑の餌に食いついた話を引き、士も禄に釣られて道を失うことを戒めた。
- 賦税で二個の卵を私したことを理由に有能な武将(茍変)の登用を渋る衛君に、子思は「大工が木の小さな傷を理由に良材を捨てないように、小過で大器を退けるべきでない」と諫めた。
斉における問答
- 容貌を戯れの種にした斉君の嬖臣に対し、子思は聖人の徳は容貌によらないと説いた。
- 諸侯に覇を唱えたい斉王に対し、子思は天下を得る者は天下を我がものにしようとしない者であると説いた。
- 富貴だが不徳な梁起を推挙するよう求められた際、子思は財に厚ければ徳に薄いのが自然の道理であるとして辞退した。
- 尹文子が我が子を疑い妻を疑おうとした際、子思は堯舜のような聖人にも不肖の子(丹朱・商均)がいた例を引き、思いとどまらせた。
- 罪無き臣を怒りに任せて殺した斉王に対し、子思は文王の仁と紂の暴の対比を引いて諫めた。
賢才登用論(対衛君)
- 衛君の招きに応え、子思は財幣ではなく賢者の推挙をもって報いようとし、農夫の子である李音の賢才を推薦したが、衛君は出自を理由に取り合わなかった。子思は、名で人を取り実を取らない衛君の姿勢を鋭く指摘した。
- 衛君に、道を体する者は労せず功があると説き、生死・利害を超えた篤道の君子のあり方を語った。
交友・礼にまつわる細事
- 衛公子交が師事を願ったのに対し、子思は戦乱の世にふさわしい在り方(英雄の招致・疆土の保全)を説いて辞退の意を示した。
- 公子交から馬車の贈り物を受けようとした際、礼の分限(父兄を越える賜与は受けぬ)を理由に一度断った逸話。
- 公叔木が子思に親しまれようとしたが、子思は外見や評判で人を判じる者を軽んじ、実を修めて名を求めぬ者(子良)こそ賢者だと述べた。
子思の格言
- 「事は自ら名づけられ、声は自ら呼ばれ、貌は自ら顕れ、物は自ら処り、人は自ら官(つかさど)る」など、物事の自律性を説く言葉。
- 「己の心に勝てずして人に勝てようか」など、修身の要諦を説く短句。
- 「民は君を心とし、君は民を体とする」(文選注)、「言而信、信在言前」など統治論に関する箴言を多数収める。
- 費子陽が周の衰亡を嘆いた際、子思は自らの治めえぬ事を憂えるより自らを治めることを説いた。
- 曽子・曽申との問答で、時勢に応じて自らの節を保つ道(屈己と抗志の使い分け)を論じた。
系譜
- (史記より)子思の子孫は白(子上)、求(子家)、箕(子京)、穿(子髙)と続いたと伝える。(皇覧の割注に墓所の記載あり。)
孟母の教育(列女伝・韓詩外伝)
- 孟母は墓の傍、市場の傍を経て学校の傍に居を移し、孟子が礼儀作法を真似て遊ぶようになったことで初めて安住の地とした(孟母三遷)。
- 孟子が学業半ばで帰ると、孟母は織りかけの布を断ち切り、学問を中途で廃することの無益さを説いた(断機の教え)。
- 東家が豚を殺すのを見て問う孟子に、孟母は嘘をつかぬよう自ら豚肉を買って食べさせた逸話(胎教・不欺の教え)。
- 妻の作法を咎めて去ろうとした孟子を、孟母は「入室の際に声をかけぬ非礼はお前にある」と諭し、妻を留めさせた。
- 斉で用いられず憂える孟子に、孟母は婦人の道(三従)に触れつつ、成人した子は自らの義に従うべきだと諭した。
子思との師弟関係
- 幼い孟子が子思に見(まみ)えた際、子思はその志を喜び厚く遇し、孔子が程子を厚遇した故事に准えた。
- 孟子の「堯舜文武の道は努力で至れるか」の問いに、子思は「彼も人、我も人。日夜努めれば至らぬはずがない」と答えた。
- 「利」より「仁義」を先とすべきかとの孟子の問いに、子思は仁義こそ真の利であり、上が不仁不義であれば大きな不利益を招くと説いた(易・繋辞を引く)。
梁惠王との問答
- 用兵に苦しみ賢者を招いた梁惠王に対し、孟子は「利」を求める風潮こそ国を危うくすると諭し、仁義の政を説いた。
- 秦の脅威に対しては太王が民を思って邠を去った故事を引いて示唆したが、惠王は喜ばなかった。
- 「好色」「好勇」を理由に王道を躊躇う惠王に対し、孟子はいずれも民と共にすれば妨げにならないと、太王・文王の故事を引いて説いた。
斉における逸話
- 斉宣王に三度会いながら政治を語らなかった理由を問われ、孟子は「まずその邪心を正すため」と答えた。
- 淳于髠との問答で、賢者が用いられなければ効果が現れないことを、雷鳴でも聾者には聞こえない喩えで説いた。
- 道が用いられぬ斉での憂いを孟母に語った孟子に、孟母は成人した子は自らの義に従うべきだと諭した。
孟子の言葉(格言集)
- 「学ぶことは飢えを癒す食のごとし」「田を肥やすことより心を肥やすことを知るべし」など修養に関する言葉。
- 「虐政は刃で人を殺すに異ならず」「恩を推し及ぼせば四海を保つに足る」など仁政の要諦。
- 「智慧ありても時勢に乗るに如かず」「枉れる者を直そうとして曲がった手段を用いれば人を正せない」など処世訓。
- 「白羽・白雪・白玉、色は同じでも性は異なる」「伊尹は一芥も濫りに与奪せず」など人物論・比喩。
- 斉人の一妻一妾の寓話(乞食して富貴を装う夫の話)を引き、不義によって富貴を得て驕る者を風刺した。
- 「仁義礼智信は天爵なり」「千年に一聖、五百年に一賢」「墨子は兼愛のため頂を摩り踵に至る(自己犠牲)」など人物・徳目評。
- 「罪無き者を一人殺して天下を得ることは仁者のせぬところ」「伯夷・叔斉は悪を見ず悪を聞かず」など清節の評。
- 滕文公の葬送に際し天候の悪化で延期を求める声に対し、太子は先例(文王の故事)を引いて礼を尽くすことを選んだという逸話。
- 「善不善はその目に表れる。心正しければ瞳は澄み、心正しからざれば瞳は濁る」(孟子・離婁篇の要旨)。
- 髙子の問いに答え、衛女の詩や伊尹の故事を引き、常道と権変の使い分けが真の賢者の道であると説いた。
- 「仁は人の心、義は人の道である。心を失っても求めぬ者は、逃げた鶏犬すら求める心にも劣る」との言葉で、学問の要は失った心を取り戻すことにあると説いた。
- 「紂は天子でありながら死は匹夫にも劣った。これは紂が自ら道を絶っていたからで、天が見捨てた日に始まったのではない」との評。