繹史魯穆公、賢を用いる(鄒穆公)(魯穆公用賢(鄒穆公附))
- 履歴: 魯穆公(在位BCE408年頃-BCE377年頃)は戦国初期の魯国の君主。孔子の孫にあたる子思を重んじ、公儀休・公孫僑如ら賢者を用いて国政を治めようとした。以下は子思をはじめとする賢臣との問答や、当時の魯の逸話を集めたもの。
子思との問答
- (孔叢子より)魯穆公が「先君の業を継げていない」と嘆き教えを乞うたのに対し、子思は私情による美化ではなく公義に基づく施政(不当な支出を除き困窮者を助けること)を勧めた。
- 同・国を興す道を問われ、子思は周公・伯禽の政に倣い、公家の恵みを施し私門の利を絶ち、百姓に恩を結ぶことを説いた。
- 同・太子を立てる法について問われ、子思は殷は弟を立て周は子を立てる違いを説明し、文王が適子を廃し次子を立てたのは権(臨機の処置)であって常法ではないとした。
- 同・「善行を人に知られたくないというのは本当か」と問われ、子思は、善行が知られず誹りを受けるのは望まぬことであり、雞鳴から夜半まで善を行いながら人に知られることを恐れると言う者はむしろ虚偽か愚かだと答えた。
- (韓非子より)龐氏の子の不孝について問われた子思は、細事の詮索は君子のすることでないと答えて退けたが、代わって答えた子服厲伯が過ちを告げ口したことで穆公に重んじられた。世評はこれを、姦を告げる者ばかりが重んじられる魯の風潮を憂えるものとして伝える。
- 同・子思が著した書の言葉について疑いを向けられた際、子思は自らの記録が祖父孔子の意を損なっていないと弁明した。
- 同・閭丘という臣が斉に叛いて魯に投じようとした際、穆公が受け入れを子思に相談したが、子思は不忠の臣を受け入れることは道義に反するとして断った。
- 同・穆公が公儀子(公儀僭)を宰相に推そうとした際、子思は高禄で釣るような登用のあり方を戒め、真に賢を求めるならば礼を尽くすべきだと説いた。
- (礼記より)旧主のために喪服を着る礼について問われ、子思は今の君子は礼を尽くして人を用いず退けもしないため、そうした礼はもはや要らないと答えた。
- (孔叢子より)穆公が子思を宰相にしようとしたが、子思は君主に疑われては去るしかないとして辞去しようとした(呂氏春秋の割注に同様の異伝あり)。
公儀休の清廉
- (史記より)公儀休は魯の博士から宰相となり、法を守り私利を貪らぬ政をした。魚を贈られても、宰相である間は自ら魚を賄えるとして受け取らず、家人の作った良質の葵や布も、農民・織女の利を奪うとして廃した。(韓非子の割注に同様の逸話あり。)
- (説苑より)魯君の死に際し左右の者が門を閉ざそうとしたが、公儀休は「既に池・山の利を民から取らず苛酷な令も出していないので、心はもとより閉じている」と答えた。
礼にまつわる逸話
- (礼記より)叔仲皮・子柳の喪における礼の適否、泄柳の葬送の逸話などを収める。
- 同・干魃の際、穆公が巫や身体障害者を曝して雨乞いすることの当否を県子に問い、県子はそれを退け、市を移すことのみを適切とした。
- 同・穆公の母の喪に際し曽子の門人に喪礼の作法を問うた逸話、県子による喪服・喪期にまつわる諸説を収める。
漆室の女
- (列女伝より)魯の漆室の女が、君主が老い太子が幼い国事を憂えて嘆いた逸話。三年後に果たして魯は乱れ、斉・楚に攻められ民が苦しんだという。(韓詩外伝の割注に同工の魯監門の女の話、琴操の割注に異伝あり。)
辛櫟と南宮辺子の議論
- (説苑より)辛櫟が「周公は太公望に及ばない」と論じたのに対し、南宮辺子は周の成王・周公の卜辞を引いて反論し、地の険阻に頼るのではなく徳によって国が栄えると説いた。(呂氏春秋の割注に同様の異伝あり。)
魯の外交
- (韓非子より)犂鉏が穆公に、公子を晋・楚に仕えさせても遠水は近火を救わぬと諭し、近隣の斉こそ頼みとすべきと説いた。
鄒穆公の善政(付)
- (新書より)鄒穆公は鳧雁の飼料に粃(籾殻)を用いる令を出し、民に粟で粃を買わせようとする吏の進言を退け、国庫の粟も結局は民のものであるとして、民との一体感を説いた。
- 同・楚王が美女・伎楽を贈って鄒君を惑わそうとしたが、穆公は節を守って淫楽に溺れず、倹約と親民の政を敷いた。その死に際し、鄒の民のみならず周辺の民までもが喪に服したという。