繹史楊朱・墨翟の言(下)(楊朱墨翟之言(下))

公輸子、楚の宋攻めを止める

  • (戰國策より)公輸般が雲梯を作り宋を攻めようとしたのに対し、墨子が十日十夜歩いて郢に至り、公輸般を説得。荊の広大な地と宋の狭小な地を、文軒と敝輿、粱肉と糟糠の喩えで比較し、桃李窃盗の喩えを重ねて義に反すると諭した。楚王もこれを聞き入れ、攻撃を思いとどまった。
  • (呂氏春秋の割注より)別伝では、墨子が自ら魯から郢へ赴き、帯を城、牒を攻城の械に見立てて公輸般と模擬攻防戦を行い、九度の攻めをことごとく防いだうえ、弟子禽滑釐ら300人が既に宋の城壁上で守りにつくと告げ、楚に攻撃断念を促したとする。
  • (墨子・公輸より)同工異曲の記事。墨子が斉から十日十夜歩いて郢に至り、公輸般と問答。荆の富と宋の貧を対比し、攻めることは知に反すると論破した。楚王の前でも同様の模擬攻防戦を行い、公輸般の攻め手が尽きても墨子の弟子300人が既に守備の備えを終えていると述べ、楚は攻撃を断念した。帰途、宋の門番が雨宿りを拒んだという皮肉な逸話を添える。
  • (墨子・魯問より)公輸子と墨子の問答。宋を得る前と得た後とで態度を変えぬのが義であると説く。公輸子が竹木で鵲を作り三日飛ばしたことを誇ったが、墨子は日常の車轄(車軸のくさび)を作る方が真に巧みだと評した。(韓非子の割注で異伝:木鳶は3年かけて作ったが一日で壊れ、恵子はこれを評して「車輗を作る方が巧み」としたという。)
  • (墨子・魯問より)楚・越の舟戦の逸話。公輸子は鈎彊(相手を引っ掛け押し返す武具)を発明して楚を勝たせたが、墨子は「愛と恭とで結ぶ我が義の鈎彊」の方がまさると説いた。

非攻

  • (墨子・非攻より)他人の桃李・犬豚・馬牛を盗む罪、人を殺す罪の重さを段階的に積み上げる論法で示し、小さな不義は世人が知って非難するのに、大きな不義である他国への攻撃はかえって義と称賛される矛盾を、黒白・甘苦の区別がつかない者に喩えて批判する。
  • (同・非攻より)戦争がもたらす人民の飢寒・戦病死、兵器・車馬・糧食の損耗を具体的な数字を挙げて論じ、攻戦によって得る利より失う損失の方が遥かに大きいと説く。攻戦によって国が強大化した例を挙げて正当化する説に対しては、少数の病人を救う薬で万人に薬すれば害の方が大きいという喩えで反論する。
  • (同・非攻より)攻戦は天・鬼・人いずれの利にもかなわないとし、王公大人が兵を興して他国の祖廟を焼き人民を殺す様を、天下の害を広げる行為として非難する。

非儒

  • (墨子・非儒より)儒家の喪礼における親疎による差の不合理、親の死を悼む所作の形式性、妻を娶る際の過剰な儀礼、天命論を掲げて怠惰を正当化する点などを列挙して批判する。
  • 同・喪を利用して生計を立てる儒者の様子、「古の言葉・服装でなければ仁でない」という主張の矛盾、「君子は先人に循うが自ら作らず」という言に対し、弓・甲・車・舟を発明した羿・伃・奚仲・巧垂がみな小人になってしまうと反論する。
  • 「鐘は撃てば鳴り撃たねば鳴らぬ」という受動的な処世を、君主・親への忠孝や諫言の道に反すると批判する。

大取・小取(論理・倫理の議論)

  • (墨子・大取より)愛の厚薄や親疎の別、利害の軽重を量る「権」の思想、名実の一致・不一致(是非・然不然)などの論理的議論を収める。(割注:この篇は文意が難解で欠脱も多く、十分には通読できないと注記される。)
  • (墨子・小取より)弁論の目的は是非を明らかにし治乱の筋道を審らかにすることにあるとし、辟・侔・援・推という論証の型を説く。「白馬は馬である」「盗人は人であるが、盗を殺すことは人を殺すことではない」等の命題を例に挙げる。

魯問

  • (墨子・魯問より)魯の隠者呉慮との問答。一人が耕作・機織り・戦闘で挙げる功より、天下に義を説き広める功の方が大きいと説く。
  • 同・弟子の公尚過を越に遣わし、越王が封地五百里を条件に招こうとしたが、墨子は自分の道が真に用いられるかを重んじ、封地目当てで赴くものではないとして辞退の意を示した。

耕柱・貴義・公孟

  • (墨子・耕柱より)愛に親疎の差をつけるべきだと説く巫馬子に対し、墨子は兼愛の立場から反論した。
  • (墨子・貴義より)「万事、義より貴きものはない」と説く。魯から斉へ赴く際、義のために苦しむ必要はないと諭す旧友に対し、耕す者一人と食う者多数の喩えで、義を勧める者こそ理にかなうと答えた逸話や、多くの書を車に積んで衛に赴いた際、要をすでに掴んでいれば書物の多寡は問題でないと弟子に説いた逸話を収める。
  • (墨子・公孟より)「鐘は打てば鳴り打たねば鳴らぬ」という受動的な処世訓に対し、国家の大事に際しては問われずとも進んで諫言すべきだと反論する。

墨子の倹約思想

  • (説苑より)弟子禽滑釐の問いに答え、墨子は錦繍などの華美を斥け、堯舜・殷の質素と桀紂の奢侈による滅亡を対比し、まず質実を第一とし装飾は後にすべきだと説いた。

墨家をめぐる異聞

  • (荘子より)鄭人緩が儒を学んで栄え、弟の墨儒に対抗し争ったすえ自殺した寓話を引き、天の働きを人為の功として誇ることを戒める。
  • (淮南子より)墨子に仕える者180人は皆、火に入り刃を踏むことも厭わなかったという。墨子はもと儒学(孔子の術)を学んだが、その礼の煩雑さや厚葬による民の疲弊を嫌って夏の政に転じたとされる。(割注:楚王への説得逸話や、顔回の故事との異同について諸書の説が分かれると付記。)

鉅子継承の逸話

  • (呂氏春秋より)墨者の鉅子孟勝は荊の陽城君の城を預かっていたが、陽城君が罪を得て国を失うと、符無きまま責を全うできぬとして弟子180余人と共に死に、あらかじめ鉅子の位を宋の田襄子に伝えていた。
  • 同・墨者の鉅子腹䵍は秦にあり、その子が人を殺した際、秦恵王が特赦しようとしたが、腹䵍は「殺人者は死す」という墨者の法を曲げず、自ら子を法にかけて死なせた。

弁説をめぐる逸話

  • (淮南子より)田鳩が秦恵王になかなか会えなかったが楚を経由して認められた話、澧水が清らかすぎて魚が寄りつかない喩えなどを引き、評価と真の価値がずれる例を論じる。謝子が秦恵王に説いたが讒言により聞き入れられなかった逸話も収める。(割注:呂氏春秋の異伝では、唐姑果の讒言によって謝子の説が退けられた顛末が詳しく記される。)
  • (韓非子より)楚王が「墨子の言は道理は正しいが弁舌が拙い」と田鳩に問うたところ、田鳩は「秦伯嫁女」「楚人売珠」の故事を引き、文辞を飾りすぎるとかえって本意が伝わらなくなると答えた。
  • 同・「智士は目下の者に取り入らず君に見(まみ)える」との問いに対し、州部・毛伯という下の役を経ずに用いられた者は却って失政を招くと答えた逸話。(割注:胡非子・随巢子にまつわる逸話も付記。屈将子が勇の五等について胡非子に問うた話、随巢子が越蘭と鬼神の是非を論じた話などが収められる。)

董無心との論争

  • (論衡より)儒家の董無心と墨家の纒子が論争し、纒子は「鬼神は善悪に応じて禍福を下す」例として秦穆公の長寿を挙げたが、董無心は堯舜が必ずしも長寿でなく桀紂も夭折したわけではないと反論し、纒子は答えられなかったという。(割注:漢書芸文志に見える墨家諸子(田俅子・随巢子・胡非子・我子・董子)の著書篇数を付記。)