- 履歴: 魯における日食・地震・水旱・虫害・饑饉・火災など天変地異の記録を集めた項目。末尾には、春秋の記述原則(内外詳略・告赴・隠諱・凡例と変例)を論じた長大な編者の議論を付す。
隠公・桓公期の記録
- (左傳より)隠公元年、蜚(害虫)が現れたが被害に至らなかったため記録されなかった。
- (公羊傳・糓梁傳より)隠公三年の日食、五年の螟(稲の害虫)、九年の大雨・大雪など、常事でない天変は記録するのが原則とされ、日食の日付の有無や朔の記載法にも意味があると説かれる。
- (左傳より)隠公六年冬、京師(周)が饑饉を告げてきたため、公は宋・衛・斉・鄭に穀物を求める使いを送った。これは礼にかなうものとされた。
- (公羊傳・糓梁傳より)桓公元年秋の大水、桓公三年の日食「既」(皆既日食)などが記録される。豊作(有年・大有年)も「喜びをもって」記録される慣例があった。
- (左傳・糓梁傳より)桓公十七年冬十月朔の日食は日を記さなかった。これは暦を司る日官の過失によるものとされる。
荘公・僖公期の記録
- (左傳・公羊傳・糓梁傳より)荘公七年、恒星が見えなくなり夜が明るくなった異変と、星が雨のように隕ちた現象が記録される。同年の「麦を損なうも嘉穀を害さず」という記事、螟や蜮(害虫)による被害の記録も見える。
- (公羊傳・糓梁傳・春秋繁露より)荘公二十五年、六月朔の日食に際し社に牲を用いて鼓を打ったのは非礼とされ、同年の大水でも同様の非礼があった。春秋繁露は、日食・大水をそれぞれ陰陽の秩序が乱れた現象として説明する。
- (国語・糓梁傳・公羊傳・春秋繁露より)荘公二十八年冬の饑饉に際し、臧文仲(臧孫辰)が斉に穀物を乞うた(告糴)ことが記され、国語には文仲が魯の窮状を訴えた際の言葉が詳しく引かれる。孔子はこれを「国は三年の蓄えを持つべし」という戒めとして評したという。
- (公羊傳・糓梁傳・春秋考異郵より)僖公三年、春から五月まで雨が降らなかったが「旱」とは言わず「不雨」とのみ記された。春秋考異郵には、僖公が自ら身を慎んで郊外で雨乞いをし、澍雨を得た逸話が引かれる。
- (公羊傳・糓梁傳より)僖公十四年秋の沙鹿の山崩れを晋の卜偃は「一年のうちに大きな咎があり、国を滅ぼしかねない」と予言した。十五年の日食、震雷による夷伯の廟の破壊なども記される。
- (公羊傳・糓梁傳より)僖公十六年、隕石が宋に五つ落ち、六羽の鷁が宋の都を吹き飛ばされて飛び去った現象は、周の内史叔興によって「陰陽の事であって吉凶の予兆ではない」と評された。
- (公羊傳・糓梁傳より)僖公二十年の西宮の火災、二十一年夏の大旱に際し公が巫尪を焼こうとしたのを臧文仲が諫めた逸話、二十九年の雹害なども記される。
文公・宣公期の記録
- (公羊傳・糓梁傳より)文公二年の「不雨」の記事は民への配慮の欠如を示すもの、三年の宋における「雨螽(イナゴが降る)」は死んで落下したイナゴを指す。九年の地震、十四年の彗星(星孛)が北斗に入った異変も記される。
- 文公十五年、日食に社で牲を用いて祭ったことは、天子・諸侯それぞれの正しい儀礼と異なる非礼とされた。
- (公羊傳・糓梁傳より)宣公十年の饑饉、十五年冬の「蝝(イナゴの幼虫)」の発生は、秋に生じたイナゴが冬に凍死したため「幸い」として記録された。十六年の成周宣榭の火災は「人が火をつけたもの」として、天災による「災」とは区別して「火」と記された。
成公・襄公期の記録
- (公羊傳・糓梁傳・禮記より)成公三年の新宮(宣公廟)の火災には三日間哭礼が行われた。五年の梁山崩れでは、晋の伯宗が輦を引く者から聞いた対処法(喪服をまとい群臣と共に哭し祭る)を献策した逸話が国語・糓梁傳・公羊傳に詳しく引かれる。
- 襄公二十四年、五穀すべてが実らない「大饑」の際の礼(君主の食膳を質素にする等)の等級が説かれる。二十七年の日食は暦の閏の誤りにより記録がずれ、二十八年春の氷結なしという異変を梓慎は宋・鄭の飢饉の予兆と占った。
昭公期の記録
- (左傳・国語より)昭公四年、季武子が申豊に雹害への対処を問い、蔵冰(氷の貯蔵)の礼制(時期・場所・用途)が詳しく説かれる。
- 昭公七年・十七年・二十一年・二十四年の日食に際し、士文伯・昭子・梓慎らがそれぞれ吉凶や天変の意味を論じ、正しい祭儀の作法(伐鼓・用幣の別)が繰り返し議論される。
- (公羊傳・糓梁傳より)昭公二十五年、めずらしい鸜鵒(八哥鳥)の飛来を、師已は文武の世に伝わる童謡を引いて凶兆と解した。
- 昭公二十九年、絳の郊外に龍が現れた事件をめぐり、魏献子と蔡墨が龍を治めた古の官(豢龍氏・御龍氏)の故事を問答する長い逸話が引かれ、五行を司る古代の官制(句芒・祝融・蓐収・玄冥・后土)についても述べられる。
- 昭公三十一年、日食のあった夜に趙簡子が見た夢を史墨が占い、六年後に呉が郢を陥落させるとの予言をした。
定公・哀公期の記録
- (公羊傳・糓梁傳より)定公元年の降霜による豆類の被害、二年の雉門・両観の火災が記される。
- 哀公三年、司鐸の火災が桓公・僖公の廟に及んだ際の消火・救援の様子が詳しく描かれ、孔子は陳にあってこれを聞き、家語には孔子が桓僖の廟が失われるべくして失われた理由(親等が尽きた廟を毀たなかった咎)を語ったとされる。
- 四年の蒲社(亡国の社)の火災、十二年冬の螽(イナゴ)を巡り孔子が暦の誤りを指摘した逸話、十三年の彗星の出現も記される。
編者按:春秋の記述原則をめぐる長論
- (編者按)春秋は魯の史書に基づき編まれたため、国内の事は詳しく国外の事は簡略という原則があり、他国の事件は「告げ」(告赴)があって初めて記録される。滅亡・敗戦・即位・喪など、国家の大事は諸侯間で互いに告げ合う慣習があったが、告げがなければ記録されない例が数多く見える(紀による夷討伐、秦の重耳擁立など)。
- 国内の事についても、宗廟に告げなかったもの、君主自身の行為でないもの、意図的に隠したもの(隠諱)は記録されない。特に「隠諱」は、君主や国の悪事を直接書かず、言い回しを和らげたり、名を伏せたりする形で表現され、聖人が「善は君に帰し、悪は自らに帰す」という原則に基づくとされる。
- 祭祀(郊・雩・望・禘・嘗・烝など)、朝聘、蒐狩、城築などはいずれも「常事は記さず、時期や作法を誤った場合にのみ記す」という共通原則があり、災異についても「災いとならないものは記さない」という原則がある。日食・彗星・地震・水旱・虫害・饑饉などはすべてこの原則のもとに記録されており、特に饑饉は民の困窮の深刻さに応じて「饑」「大饑」などと書き分けられる。
- 春秋の記述法には、伝に明記される凡例(五十条)と、一事ごとの特殊な書き方(変例、二百八十五条)とがあり、魯史の旧例に基づくもの、他国の告げ方の相違によるもの、孔子が独自の判断で改めたものなど、性質の異なる複数の層が重なっている。編者は、これらの内外・詳略・告赴・隠諱・凡例と変例の関係を理解して初めて、春秋の筆削に込められた微意を窺うことができると結ぶ。