- 履歴: 魯における城郭・宮室・廐舎などの土木事業(城築)に関する記事を集めた項目。
公命によらない土木は記録されない
- (左傳・公羊傳より)隠公元年夏、費伯が郎に城を築いたこと、南門を新造したことは、いずれも公の命によらなかったため記録されなかった。隠公七年夏の中丘の築城は時期にかなわなかったため記録された。
城の規模と用語の区別
- (左傳・糓梁傳・公羊傳より)荘公二十八年、郿に築いたのは「都」に当たらないためであり、宗廟・先君の位牌を有する邑を「都」、無いものを「邑」と呼び、邑には「築」、都には「城」の語を用いるという使い分けが示される。同年、時期に合わない廐(延廐)の新造も批判された。
民力を慎む土木の原則
- (左傳・糓梁傳・公羊傳より)荘公三十一年、三時(春夏秋)にわたり山林沢藪の利を独占して民を使役したことが強く咎められ、桓公の政治と対比して魯の内政の乱れが指摘される。土功(土木事業)は龍星や火星の出現、水面の凍結などの天文現象を基準に、時期を選んで行うべきものとされた。
- 僖公二十年の南門新造、文公七年・十二年、宣公八年、成公九年・十八年、襄公十三年、昭公九年、定公六年・十五年など、歴代にわたり城築の時期の適否が繰り返し記録され、民の農繁期を避けることの重要性が強調される。昭公九年の郎囿の築造では、季平子が急いで完成させようとしたのに対し、叔孫昭子が「詩経」を引いて「民を酷使すべきでない」と諫めた逸話が記される。