繹史鄧(曼姓侯爵、殷代の支封)(鄧(曼姓侯爵、殷の時代に支封された国)・曹(姫姓伯爵、周武王が文王の子叔振鐸を封じた国))

鄧・穀の君主、失地の身で来朝(左傳・公羊傳・穀梁傳)

  • (左傳より)7年春、穀伯と鄧侯が来朝したが、実名を記して身分を賤しめられた。
  • (公羊傳・穀梁傳より)両者はすでに国を失った君主であり、実名で記されたのは失国を示すためとされる。ただし諸侯としての交際が続く限り、後日また変わる可能性も含意される。

曹の対魯外交(左傳・公羊傳・穀梁傳・詩経・礼記)

  • (左傳より)9年冬、曹の太子が来朝し、上卿の礼で迎えられ饗応を受けた。楽が奏でられた際、施父は「太子は憂いを抱えているのではないか、歎くべき場ではないのに歎いている」と評した。
  • (公羊傳・穀梁傳より)世子が父に代わって朝見に来たことについて、老いた父に代わり子が政を執ることを譏る見方が示される。
  • (左傳・穀梁傳より)10年春、曹桓公が薨じた。
  • (公羊傳より)荘公24年、曹の大夫・曹羈は、戎の侵攻に対し「衆を恃んで正義のない戎に自ら敵対すべきでない」と3度諫めたが聞き入れられず国を去った。君子はこれを君臣の義を得た行いと評した。「赤」という人物についても言及があるが、国を失った君主(郭公)を指すものとされる。
  • (左傳・穀梁傳より)26年、曹羈をかばうために加害者の実名を記さなかった記事が見える。
  • (詩経・蜉蝣より)曹の奢侈を風刺した詩とされ、序に「昭公の国が小さいのに奢侈で身の振り方を誤ったことを大夫が憂えて作った」と解説される。
  • (左傳より)文公11年、曹文公が来朝(即位後初の朝見)。成公7年、曹宣公が来朝。13年、曹宣公が軍中で薨じた。
  • (礼記より)諸侯が秦を伐った際、曹桓公が会同の場で薨じ、諸侯が含(口中に玉を含ませる葬礼)を助けた(原文注記では「桓」は「宣」の誤りとされる)。
  • (左傳より)曹人が公子負芻に留守を守らせ、公子欣時に曹伯(宣公)の喪を迎えさせたところ、負芻が太子を殺して自立した。諸侯はこれを討とうとしたが晋は労役を理由に翌年に延期し、宣公を葬った。子臧(欣時)が国を去ろうとすると民が従おうとしたため、負芻(成公)は懼れて罪を告白し、子臧は帰国してその邑を治めた。
  • (左傳・穀梁傳より)15年春、諸侯は戚に会して曹成公を討ち、捕らえて京師へ送った(「晋侯が曹伯を捕らえた」と記すのは、その民衆にまでは累が及ばなかったことを示す)。諸侯は子臧を新たな君主に立てようとしたが、子臧は「聖人は節義を全うし、次善の者は節義を守り、下位の者は節義を失う。これは我が節義ではない」として辞退し、宋へ出奔した。
  • (左傳より)16年、曹人が晋に赦免を請い、先君(宣公)の功績を訴えた。重ねての請願により晋侯は子臧に帰国を促し、子臧は曹伯(成公)を伴って帰国させ、自らは邑と卿位をすべて返上して隠棲した。
  • (公羊傳・穀梁傳より)このいきさつは「公子喜時(子臧)が国内で穏便に事を収め京師で赦免を得たので、たやすいことであった」と評される。
  • (左傳より)21年冬、曹武公が来朝(初めての朝見)。
  • (公羊傳より)昭公20年、公子喜時(子臧)の子孫が国を去ったことに関し、君子は賢者の善行への配慮から「畔(そむく)」という語を避けて記録した、その理由が説かれる(曹には元来大夫の身分の記載がなく「公孫」と記されたのは、その血統の貴さゆえとされる)。

※本ファイルは「牟(爵姓不詳、一説に祝融の後裔)」の見出しで終わるが、牟についての本文記事は次ファイルへ続く。