繹史薛(任姓侯爵、顓頊の裔)(滕(姫姓侯爵、周が文王の子叔繡を滕に封じた国))
※入力ファイルの#+TITLEは「薛」となっているが、本文の内容はほとんどが滕(姫姓侯爵の国)の記事であり、末尾に薛の短い記事が一件付されるのみである。本文内容に基づき見出しを「滕」とした。
滕の対魯外交(左傳・公羊傳・穀梁傳)
- (左傳より)隠公7年、滕侯が薨じたが実名は記されなかった(魯とまだ同盟していなかったため)。同盟の諸侯が薨じた場合は実名で訃報を伝えるのが礼とされる。
- (左傳より)11年、滕侯と薛侯が共に魯へ来朝し、席次を争った。薛侯は「自分の方が先に封じられた」と主張し、滕侯は「自分は周の卜正(占官)の家系であり、薛は庶姓であるから後にはできない」と反論した。魯公は羽父を薛侯に遣わし、「周の宗盟では異姓は後に位置づけられる、もし薛侯が快く応じてくれるなら滕君を先にしたい」と説得し、薛侯はこれを了承して滕侯が上位となった。
- (穀梁傳・公羊傳より)天子に事がない時、諸侯が互いに朝見するのは正礼であり、礼を考え徳を修めることで天子を尊ぶ意義があると説かれる。
- (左傳より)文公12年秋、滕昭公が来朝した(公との初めての正式な朝見)。襄公6年秋、滕成公が来朝した(同じく初めての朝見)。
- (左傳より)31年冬、滕成公が会葬に訪れたが、その態度が緩慢で涙が多く、子服恵伯は「滕君は間もなく死ぬだろう、職務を怠り悲しみが度を過ぎている、死の兆しが見える」と評した。
- (左傳より)昭公3年丁未、滕子原が薨じ、同盟のため実名で記された。5月、叔弓が滕に赴き滕成公を葬った際、随行の子服椒が懿伯の忌日に当たり入城を控えようとしたが、恵伯は「公事に私の忌避は関係ない」として先に入館させた。
- (左傳より)31年、薛伯榖が薨じた。同盟のため実名で記録された(薛についてはこの一件のみが本ファイルに収められている)。