冉求(冉有)
- (史記より)冉求、字は子有。季氏の宰となり、「聞けばすぐ行うべきか」との同じ問いに対し、孔子が冉求には「行え」、子路には「父兄が健在なのにどうしてすぐ行えようか」と正反対に答えた逸話が有名で、公西華の疑問に孔子は「求は引っ込み思案なので後押しし、由は出過ぎるので抑えた」と説明した。
- (家語より)冉有が孔子に「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」の意味を問い、孔子は「大夫の罪は婉曲な名目(不廉汙穢なら『簠簋不飭』等)で呼び、自ら処断させることで恥を教える」礼の精神を説いた。また「三皇五帝が刑を用いずとも治まった理由」を問い、孔子は姦邪・不孝・殺上・鬬變・淫乱の五つの罪の根源(不足・不仁・不義・無序・男女無別)と、それぞれに対応する礼(制度・喪祭・朝覲・郷飲酒・婚聘)による予防の思想を長く説いた。
- (韓詩外傳より)魯の哀公に「人は生まれつきの資質のみで君子になれるか」と問われた冉有は、子路・子貢・姚賈・百里奚・太公望・管仲らがみな卑賤の身から学問によって名を成した例を挙げ、「学問なくして君子となった者はいない」と説いた。
子路(仲由)
- (史記より)仲由、字は子路。もとは荒々しく勇を好む人物であったが、孔子の礼による教化を受けて入門した。「政」を問われた孔子は「先んじて働き、労苦を厭うな」と答え、「片言で訴訟を裁けるのは由(子路)だけだ」「聞いたことをまだ実行していないうちは、新たに聞くことを恐れる」など、その実直さを孔子はしばしば評した。衛の内乱(蒯聵と輒の父子争国)に際し、孔悝の危機を救おうと駆けつけ、「君子は死すとも冠を脱がず」と冠の紐を結び直して斬られて死んだ。
- (家語より)「学問は益があるのか」との子路の問いに、孔子は「不揉の南山の竹も、羽をつけ鏃を研げばより深く突き刺さる」と学問の効用を説いた。剣を振るって見せた子路に「古の君子は忠と仁を武器とする」と諭した逸話、盛装して驕った様子を戒められ改めた逸話も載せる。
- 子路が琴を弾いた際、孔子はその音に「殺伐の気」を聴き取り、「先王の音は南方(生育)の調べを尊び、乱世の音は北方(殺伐)に偏る」と説いて戒め、子路は反省して食を断つほど思い悩んだ(論衡は、子路が元来粗暴だった人物が孔子の教化によって政事の四科に列するまでに変化した例として引く)。
- 管仲の評価をめぐる子路との問答(管仲が主君の死に殉じなかったことを「不仁」と非難する子路に対し、孔子は「天下の相たる者は生きて功を為すべきだった」と弁護)、孝の実践に関する問答、蒲の地を治めた実績(田畑の整備・邑の充実・庭の粛然とした様子)を孔子が三度にわたって称賛した逸話(子貢の質問に応じ、外見から治績を読み取る観察眼を示す)などを載せる。
- 洪水に備えて私財で民に食を配ったことを孔子に咎められた逸話(君主の恩恵を僭越に独占することへの戒め、韓非子には異伝あり)、姉の喪を延ばした孝心、旅立ちに際し孔子から「五つの徳目(謙譲・忠・信・恭・礼)を守れば長久である」との餞の言葉を受けた逸話などを載せる。
子游(言偃)
- (史記より)言偃、字は子游。呉の人で武城の宰となり、絃歌の声を聞いた孔子が戯れに「鶏を割くのに牛刀を用いるようなものだ」とからかったが、子游が「君子は道を学べば人を愛し、小人は道を学べば使いやすくなる」と答えると、孔子は「戯言であった」と前言を撤回した。
- 礼記「礼運」には、蜡祭の後に嘆息する孔子に子游が理由を問い、孔子が「大道の行われた大同の世(天下を公とし、賢を選び、老幼孤独まで養われた理想の世)」と「大道が既に隠れた小康の世(家を私し、礼義によって秩序を保つ現実の世)」を対比して論じ、続けて礼の起源・意義・国家統治における役割を、天地・陰陽・鬼神・祭祀・人情・十義(父子・夫婦・君臣など)などの観点から長大に説く重要な問答が収められている(原文は儒教の礼論を代表する著名な長編であるため、ここでは大意のみを記す)。
- 説苑には、子産の死を悼んだ鄭国と孔子の死を悼まなかった魯国の違いについて、季康子の問いに子游が「子産は身近な溜め水、孔子は天からの雨のようなもので、大きな恩恵ゆえかえって民は特に意識しない」と答えた逸話を載せる。
- 礼記には、慈母への服喪、喪具の程度、司寇惠子の喪への服し方、有子との「喪における哀情と礼の形式のいずれを重んじるか」の議論、曾子との弔問の作法をめぐる問答など、子游の礼に関する厳密な見識を示す逸話を多数収める。
子夏(卜商)
- (史記より)卜商、字は子夏。「巧笑倩兮、美目盼兮」の詩句の意味を問い、孔子から「絵事は素(下地)を後にする(=礼は仁の後)」との答えを引き出し、「商よ、始めて共に詩を語れる」と称賛された。「師(子張)と商(子夏)いずれが優れるか」との子貢の問いに孔子は「過ぎたるは及ばざるがごとし」と答えた。孔子没後は西河で教授し、魏の文侯の師となったが、子の死を嘆いて失明した。
- 礼記「孔子閒居」には、子夏が「民の父母」たる君主の条件を問い、孔子が「五至(志・詩・礼・楽・哀が至る境地)」「三無(無声の楽・無体の礼・無服の喪)」「三無私(天地日月の私心なき覆載)」という高度な政治哲学を説く長い問答が収められている(大意のみ記す)。
- 説苑には、易経の「損益」の卦について孔子が「自ら損なう者は益し、自ら益す者は欠ける」謙虚の徳を説いた逸話を載せる。
- 礼記には、三年の喪の途上で軍役に服すべきかを問う問答、喪明けに琴を弾いてもなお哀しみの余韻が残った子夏と、すでに平静を取り戻した子張との対比(孔子はいずれも礼にかなうと評した)、父母・兄弟・従兄弟の仇への対処法についての問答を載せる。
- 孔叢子・尚書大伝・韓詩外伝には、子夏が『書経』『詩経』の深い意義を読み解き、孔子から「まだ表面を見ているに過ぎない」と指摘されつつも高く評価された逸話、「関雎」を国風の首(はじめ)とする理由を壮大な宇宙論で説いた孔子の言葉を載せる。
- 韓非子には、子夏が「先王の義に勝てば太り、富貴の欲に負ければ痩せる」と述べ、自己に打ち勝つことの難しさを語った逸話、列子には、顔回・子貢・子路・子張各々の長所と短所を孔子が評し、「彼らの長所を全て併せ持つ者にはなれないから、四人が私に仕えているのだ」と謙遜した逸話を載せる。
- 家語には、子夏が易の生成論・万物の分類(竒偶・卵生胎生の別)について論じた長い問答、韓詩外傳には、衛の霊公が急に勇士を召そうとした際、子夏が機知を用いて自らの勇(節義を守る勇)を示し、霊公を諭した逸話を載せる。
- 礼記には、子夏が子の死を嘆いて失明した際、曾子から「西河の民に孔子と見紛わせたこと・親の死を人に知られなかったこと・子を失い自ら盲いたこと」の三つの罪を厳しく指弾され、子夏が杖を投げ出して過ちを認めた逸話を載せる。