繹史孔門諸子の言行(四)(孔門諸子言行(四))

子張(顓孫師)

  • 履歴: 陳の人。字は子張。孔子より48歳年少。

子張への教え(史記)

  • (史記より)禄を求める子張に、孔子は「多聞多見で疑わしきを慎み言行の過ちを少なくすれば禄はおのずと得られる」と教えた。陳蔡の困厄の折にも忠信篤敬の大切さを説いた。
  • (史記より)子張が「士として達する」ことの意味を問うと、孔子は名声だけを求める「聞」と、質直で義を好み人を思いやる「達」とを区別して答えた。

礼楽についての問答(礼記)

  • (礼記・仲尼燕居より)子張・子貢・子游を前に孔子が礼の本質を説き、郊社・嘗禘・饋奠・射郷・食饗などの礼がそれぞれ何を敬うためのものかを述べ、礼を欠いた統治は闇の中を手探りするようなものだと諭した。
  • (礼記・仲尼燕居より)子張が政治のあり方を問うと、孔子は「礼楽を明らかにし行うだけでよい、必ずしも形式にこだわる必要はない」と答えた。

入官・治民の道(大戴礼記)

  • (大戴礼記より)子張が仕官して身を安んじ誉れを得る法を問い、孔子は善を専らにせず教えを無理強いせず失言を咎めないなど六つの心得と、忿り・諫めを拒む・怠慢・奢侈などを戒める七つの道を説いた。あわせて君子が民に臨む際は民の性情を知り、寛容と誠実をもって治めるべきことを詳しく述べた。

孔叢子に見える問答

  • (孔叢子より)子張は刑罰・聴訟・受命・婚礼の年齢・山川の祭祀などを次々に問い、孔子はそれぞれ古の制度と道理を説いた。舜の晩婚や高宗の三年不言の故事などが引かれる。

檀弓・その他の逸話

  • (礼記・檀弓より)魯の国昭子の母の葬儀での立ち位置を子張が答え、司徒敬子の喪での夫子の指図も語った。
  • (説苑より)孔子が易の賁卦を占って歎じたのを子張が問い、孔子は「賁は正色ではない、質朴こそ本来のもの」と答えた。
  • (中論より)孔子は子張に「他人の善事を聞いたら自ら取り入れよ、聞くだけで改めなければ意味がない」と説いた。
  • (韓詩外傳より)子張は子夏と孔子の議論の姿勢について、君子の議論は謙譲に帰し、小人の議論は自分を是とし他人を非難すると評した。
  • (新序より)子張が魯の哀公に7日会えず礼遇されなかったことを嘆き、葉公が龍を好みながら本物の龍を見て恐れ逃げた故事(葉公好龍)を引いて名だけの士好きを批判し立ち去った。
  • (荘子より)子張と満苟得の問答。満苟得は「無恥な者が富み多く言う者が顕れる」と説き、子張は堯舜・桀紂・孔子・墨子の例を挙げて行いの美悪が貴賤を分けると反論するが、満苟得は歴史上の権力者の矛盾を指摘し、貴賤・名利の区分も天の理に従うにすぎないと結ぶ。

子張の最期

  • (礼記より)子張が病に臥し申詳を呼んで「君子は終という、小人は死という」と述べ、死後に曾子が喪服のまま弔いに赴いた逸話、葬儀で殷の士の礼(褚幕・丹質など)が用いられたことが記される。

宓子賤(虙不齊)

  • 履歴: 魯の人。字は子賤。孔子より49歳年少。単父の宰となる。
  • (史記より)孔子は子賤を「君子なる人物、魯に君子がいなければこの人物はどこで学んだのか」と評した。
  • (説苑より)単父赴任に際し孔子から「迎合せず軽々しく許さず、高山深淵のように計り知れぬ度量を持て」と教えられた。また陽晝の釣りの喩え(味は薄いが美味な魴魚型)により、上辺の歓迎より地元の賢者・長老を重んじる治め方を学んだ。
  • (家語より)魯君の近臣による干渉を逆手にとり、あえて記録係の肘を引かせて失敗させ讒言を誘い、君の不明を悟らせた。以後単父の全権を委ねられ善政を行い、斉の侵攻時にも麦を強制収穫させず民の自発的な収奪心を戒め、季孫の非難にも屈しなかった。巫馬期の視察では漁師が小魚を逃がす様子から闇に行われる感化を知った。
  • (説苑より)宓子賤は鳴琴を弾じ堂を下りずして単父を治め、巫馬期は昼夜奔走して治めた。宓子は「人に任せる者は佚(安楽)、力に任せる者は労する」と説いた。
  • (説苑より)孔蔑と宓子賤の仕官の得失を対比する話。孔蔑は学業・親戚・友人いずれも失ったと嘆いたが、宓子賤は逆にすべて益したと答え、孔子は「君子なるかな此の人」と称えた。
  • (説苑より)単父統治の実際を問われ、父のように子のように民を扱い賢者に師事する段階を「小節・中節・大節」として説明し、孔子は「大なる者はここにあり」と評した。
  • (韓非子・淮南子より)有若が「舜は五絃を鼓して天下を治めた、単父ごときで憂うるとは」と評したのに対し、宓子は「術のある者は身を安んじて治まる」と答えた。

高柴(子羔)

  • 履歴: 孔子より30歳(家語では40歳)年少、身丈五尺に満たず容貌も醜いとされる。費・郈・武城の宰となる。
  • (史記より)子路が子羔を費の宰にしようとした際、孔子は「人の子を害する」と諫めたが、子路は「民や社稷があれば学問だけが道ではない」と反論、孔子は佞弁を嫌った。
  • (礼記より)高子臯(子羔)は親の喪に3年間笑顔を見せなかったと「難し」と評され、兄の喪を怠った者が子羔の赴任を聞いて衰を着た逸話や、妻の葬送で人の畑を踏んだ際に賄賂で償おうとした逸話が記される。
  • (説苑より)子羔が衛の政に携わり刖刑(足切り)を科した者が、後に子羔の危難を助け、恨みを持たず法の公正さを弁えていた美談(孔子は「善吏は徳を樹て悪吏は怨みを樹てる」と評す)。

原憲(子思)

  • 履歴: 魯(一説宋)の人、清貧を守り仕官せず、孔子の宰を務めた。
  • (史記より)「国に道があれば禄、道なければ禄は恥」と問い、「克・伐・怨・欲を行わないことは仁か」との問いに孔子は「難しいことだが仁かは分からない」と答えた。孔子没後、貧に甘んじ、子貢の訪問に「貧しいのであり病ではない」と答え子貢を恥じ入らせた。
  • (韓詩外傳より)環堵の陋屋に住み絃歌を楽しみ、子貢の華美な来訪に「無財を貧、学んで行えぬを病という」と述べ、名利を求める生き方を拒んだ。

漆雕開(子若/子開)

  • (史記より)孔子が仕官を勧めると「吾れ斯れを未だ信ずる能わず」と答え、孔子はこれを喜んだ。
  • (説苑より)弟子・漆雕馬人が臧氏歴代大夫の賢愚を占いの兆しでしか語らず、孔子は「智も明もそれと示さぬ点が漆雕氏の美点」と評した。

有若(子有)

  • 履歴: 魯の人、孔子より43歳年少。
  • (史記より)「礼は和を貴しとなす」の説を述べ、礼と和の調和、信・恭の重要性を説いた。
  • (礼記より)喪礼について「死は速やかに朽ちるを欲す、貧は速やかに貧しきを欲す」との孔子の言葉の真意を曾子と論じ、桓司馬・南宮敬叔への諷刺であったことを見抜いた。
  • (史記より)孔子没後、弟子たちは容貌の似た有若を師として立てたが、予知の逸話に答えられず「この座は汝の座ではない」と退けられた。

公西赤(子華)

  • (史記より)斉に使いした際、母のための粟を冉子が求めたことに対し孔子は「君子は困窮を助けるが富める者にさらに与えはしない」と教えた。
  • (孔叢子より)太甲の故事をめぐり、功と過を計って評価すべきという孔子の考えを公西赤が伝える。

澹臺滅明(子羽)

  • 履歴: 武城の人、容貌醜く孔子に才を見限られたが、のち行いが正しく諸侯に名を知られた。
  • (史記より)孔子は「言葉で人を選んで宰予に失敗し、容貌で人を選んで子羽に失敗した」と自省した。

南宮括(子容/南宮敬叔)

  • (史記より)羿・奡の非業の死と禹・稷の天下領有を対比した問いに孔子は答えず、退出後「君子なるかな、上徳なるかな」と評し、兄の娘を嫁がせた。
  • (礼記・家語より)富により定公に罪を得て衛に奔ったが財を分散し礼に復した逸話、孔子が「季孫の粟、南宮敬叔の車によって道が重んじられた」と語った逸話がある。

巫馬施(子旗/子期)

  • (史記より)陳司敗の「魯昭公は礼を知るか」との問いに孔子は「知る」と答えたが、私的には「君の悪を諱むのも礼」と釈明した逸話を巫馬旗が伝えた。
  • (韓詩外傳より)子路と共に薪を採る最中、富貴の誘惑を「勇士は死を厭わず、志士仁人は溝壑に落ちることを厭わない」と拒み、孔子から詩を引いて称賛された。

顔無繇(顔路)

  • 履歴: 顔回の父。孔子に始めて学んだ弟子の一人。
  • (史記より)顔回の死に際し貧しくて車を売り椁を作ろうとしたが、孔子は「才・不才いずれも我が子」として断った。

曾蒧(曾皙)

  • (史記より)「春服成り、沂に浴し舞雩に風す」と志を語り、孔子が深く共感した逸話(曾参の父)。

司馬耕(子牛)

  • (史記より)多弁で躁がしい性質。仁・君子について問い、孔子は「言うことを慎むのが仁」「内省して疚しくなければ憂懼なし」と答えた。

樊須(子遅)

  • (史記より)稼・圃を学びたいと願い出て、孔子から「小人なるかな」と評されつつ、礼義信を重んじる為政の要諦を説かれた。仁を「人を愛すること」、智を「人を知ること」と教えられた。

公冶長(子長)

  • (史記より)縲絏の中にあっても罪ではないとして娘を嫁がせた(民間伝承として鳥語を解し窃盗の疑いを晴らした話も併記される)。

公皙哀(季次)

  • (史記より)天下に無道の中で仕官せず生き方を貫いた。

梁鱣(叔魚)

  • (家語より)40歳近くまで子がなく妻を去らせようとしたが、商瞿の故事を引いて思いとどまり、後に子を得た。

公孫龍(子石)

  • (説苑より)子貢に学問より孝悌信を実践する日々の忙しさを語り、呉山に登って伍子胥・比干など忠臣の非業の死を嘆じ、明主に遭わぬ士の道の険しさを説いた。

顔高(子驕)

  • (家語より)衛霊公の車に同乗した際の恥辱の逸話、孔子の「好色を好むが如く好徳する者を見ず」との歎き。

その他多数の弟子(史記・家語に短い記事のみ伝わる者)

  • 公良孺(子正): 陳の人、賢く勇があり孔子の車5乗を常に従えた。
  • 秦商(子丕): 父が孔子の父叔梁紇と同じく力で知られた。
  • 叔仲会(子期): 幼くして夫子の側で記録係を務めた。
  • 孔忠(子蔑): 「知りて為さざるは知らぬに同じ」等の処世訓を孔子から受けた。
  • 商瞿(子木): 孔子より易を伝授された高弟で、易学の系譜(馯臂子弘…田何)の起点となった。
  • 顔幸(子柳)・冉孺(子魚)・曹䘏・伯䖍(子析)・冉季(子産)・公祖句兹(子之)・秦祖(子南)・漆雕哆(子斂)・漆雕徒父(子文)・壤駟赤(子徒)・商澤(子秀)・石作蜀(子明)・任不齊(子選)・后處(子里)・公夏首(子乗)・奚容蒧(子皙)・公堅定(子中)・顔祖(子襄)・句井疆(子疆)・罕父黑(子索)・申黨(子周)・顔之僕(子叔)・榮旂(子祺)・縣成(子祺/子横)・左人郢(子行)・燕伋(子思)・鄭國(子徒、家語では薛邦・字子從)・秦非(子之)・施之常(子恒)・顔噲(子聲)・步叔乘(子車)・原亢(籍、字子籍)・樂欬(子聲)・㢘潔(子曹)・狄黑(子皙)・邽選(子斂)・公西輿如(子上)・公西葴(子上/子尚) ── 以上35名は史記・家語ともに字のみが伝わり事跡はほぼ記されない(一部は表記の異同がある)。

陳亢(子亢・子禽)

  • 履歴: 陳の人、孔子より40歳年少。
  • (礼記より)陳子車が衛で死んだ際、妻と家老が殉葬しようとしたのを陳亢が「殉葬は非礼である」と諫め、看病すべきは妻と宰の方だと述べて取りやめさせた。

琴牢(子開/子張)

  • (家語より)衛の人。
  • (荘子より)子桑戸・孟子反・子琴張の3人が「無相与」の交わりを結ぶ寓話。子桑戸の死に際し編曲・鼓琴して歌う2人に子貢が礼に外れると咎めると、孔子は「彼らは方外に遊ぶ者、我は方内の者」と述べ、弔問を悔い、生死を同一視する境地を説いた。

縣亶(子象)

  • 家語のみに見え、史記に記載がない3名の一人。

編者按(弟子録の異同について)

  • 史記は仲尼弟子77人と記すが今の家語は76人しかなく、顔何の字「冉」が家語に見えないなど1名の脱漏がある。壤・穰、后・石、堅・肩、罕・宰、祖・相、旂・祈、首・守、伋・級、欬・欣、巽・選などの姓名の乱れは、形の誤りや音の通用による。
  • 申棖・申続・申棠は同一人物が複数の名で伝わった例、南宮括・南宮縚(南宮敬叔)も同様に一人二名の説と誤って二人とされた説が混在する。
  • 史記にあって家語にない者(公伯僚・秦冉・鄡単)、家語にあって史記にない者(陳亢・琴牢・縣亶)があり、編者は「陳亢・琴牢は孔子の徒たり得るが、讒言をなした公伯僚を弟子に列するのは疑わしい」と論じる。
  • 孔安国の説では弟子72人とし、仲孫何忌・南宮敬叔・顔讐由・漆雕憑や林放・闕党童子などは七十子に含まれない場合がある。左丘明も孔子と同時代だが弟子の数には入らない。
  • 陳蔡の厄で従った十人(四科)に曾参が入らないのは徳行が劣るからではなく、たまたま同行しなかっただけであり、曾子の学は游・夏に劣らないと編者は弁護する。
  • 総じて、原憲の貧居楽道、季次の未仕、公西赤の擯相の才、澹臺(顓孫)の美誉寛博、宓子の単父統治、子羔の教化、有若の博識、商瞿の易伝など、四科に漏れた弟子にも優れた人物が多く、孔門の盛んなることは古来類を見ないと総括する。