閔子騫(閔損)
- (史記より)閔損は字を子騫といい、孔子より十五歳年少。孔子は「孝なるかな閔子騫、その父母兄弟の言に人が異を唱えることがない」と称え、大夫への仕官や汚れた君に仕えることを潔しとせず、もし自分を無理に用いようとする者があれば汶水のほとりに隠れると述べた。
- (説苑より)継母に薄着をさせられ寒さに震えた子騫が、父が継母を追い出そうとした際に「母がいれば自分一人が薄着で済むが、母が去れば四人の子が寒さに苦しむ」と諫め、父を思いとどまらせた孝行譚(藝文類聚にも別伝あり)。
- (韓詩外傳より)粗末な身なりから孔子門下で学ぶうちに次第に恰幅がよくなったのは、俗世の栄達への欲と道への欲とがせめぎ合っていた心境が、教えが深まるにつれ整理された結果であると自ら説明した。
- (説苑より)子夏・閔子騫がそれぞれ三年の喪を終えて孔子の前で琴を弾いた際、子夏は喜びに満ちた音、閔子騫は悲しみを断ち切れぬ音を奏で、孔子はいずれも「礼にかなう」と評した(子貢の疑問に対し、閔子は情を礼で断ち切った者、子夏は情を礼まで引き上げた者と説明)。
- (孔叢子より)孔子が室内で琴を弾いた際の音の変化から、閔子と曾子が猫が鼠を狙う様子を言い当てた逸話。
- (家語より)閔子騫が費の宰となり孔子に政を問うと、孔子は「徳法を馬の轡に、刑罰を鞭に喩え、君主は轡と鞭を操る御者である」との長大な譬えで、徳法による統治(御術)を説いた(六官を六轡に見立てた治国論を含む)。
冉伯牛(冉耕)
- (史記より)冉耕、字は伯牛。徳行に優れたが悪疾(癩病)を患い、孔子は見舞いに訪れ窓越しに手を取って「命なるかな、この人にしてこの病あり」と嘆いた。
仲弓(冉雍)
- (史記より)冉雍、字は仲弓。政を問われた孔子は「門を出れば大賓に会うがごとく、民を使うには大祭を承けるがごとくせよ」と答え、仲弓の徳行を評して「南面(君主の位)に使える器」と称えた。父は賤しい身分であったが、孔子は「まだら牛の子でも赤く角の整った子牛なら山川の神も見捨てはしない」と出自にとらわれぬ評価を示した。
- 孔子が子桑伯子(質朴だが礼文を欠く人物)を訪ねた理由を巡り、仲弓は「上に明君なく下に賢方伯なき乱世においては、質朴一辺倒(太簡)は行き過ぎ」と論じ、「敬を居として簡を行う」中庸の政治観を示し、孔子もこれを是とした。
- (家語より)仲弓が孔子に「刑と政」「聴訟の要諦」「市場での禁令十八条」などを問答形式で学んだ内容を載せる。徳礼を先とし刑罰を最後の手段とする考え方、老幼弱者への配慮、疑わしきは罰せずの原則などが説かれる。
- (孔叢子より)古の刑罰が少なかったのは礼が先に立てられていたためであり、今は礼を欠くために刑が繁多になったとする議論、老弱者や已むを得ぬ事情のある者への寛大な処置(哀矜折獄)を説く。
宰我(宰予)
- (史記より)宰予、字は子我。弁舌に優れたが、三年の喪を短縮すべきと孔子に問い、「お前はそれで安んじるか」と問われ「安んじる」と答えたため、孔子は「予は不仁なり。子は三年にして父母の懐を免れる、三年の喪は天下の通義である」と厳しく諭した。昼寝をして「朽木は彫るべからず」と叱られた逸話もある。斉の臨菑大夫となり田常の乱に加担して一族を滅ぼされ、孔子はこれを恥じたと伝える。
- 礼記には、宰我が「鬼神」の意味を問い、孔子が魂魄・気の理論から祖廟の祭祀の由来を説いた対話を載せる。
- 大戴礼記「五帝徳」には、宰我が黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜・禹の事績を次々と尋ね、孔子がそれぞれの徳を長々と語る問答が収められている(要旨のみ記す。原文は五帝の事績を詳細に述べた長大な文章)。
- 孔叢子には、宰我が「君子は言辞を尊ぶか」「書経の語句の意味」「六宗の祭祀」などを問う逸話、斉への使いから戻った際、既に病が癒えた梁丘拠に人々が次々と薬方を献じたことの意味を孔子に問うた逸話を載せる。
- 説苑には、田成子(田常)と争い夜に兵を伏せて攻めようとしたが失敗した逸話を載せ、編者按は「これによれば宰我は田常に与しなかったことになる」と注記する。
子貢(端木賜)
- (史記より)端木賜、衛の人、字は子貢。弁舌に優れ、孔子は「お前と回(顔淵)とどちらが優れるか」と問い、子貢は「回は一を聞いて十を知るが、自分は一を聞いて二を知るのみ」と謙遜した。孔子は子貢を「瑚璉(宗廟の祭器)」に喩え、その才を評価した。子貢は財を殖やす才にも長け、魯・衛で富を築き、諸侯を歴訪して孔子の名を天下に広めた立役者と評される。
- 礼記には、子貢が「君子はなぜ玉を貴び珉(似た石)を賤しむのか」と問い、孔子が玉の徳(温潤・縝密・廉・礼・楽・忠・信・天・地・道)を仁義忠信に喩えて説いた対話を載せる。
- 荀子・家語には、孔子が流水を観て「水の徳(遍く与えて求めない、低きに循う、尽きぬ勢い、勇・法・正・察・善・志)」を子貢に説いた有名な「水の讃」、「人の下となる道」を土に喩えた「土の讃」を載せる。
- 荀子には、子貢が学問・仕官・孝行・家庭・交友・耕作のいずれについても「休むこと」はできないと孔子に諭され、「死こそが休息である」との対話(列子・韓詩外伝にも類話)を載せる。
- 礼記には、子貢が蜡祭(年末の祭)の熱狂を「楽しいのか」と問われ、「弛張(緊張と弛緩)を繰り返すのが文武の道」と教えられた話、喪における敬・哀・瘠(やつれ)の優先順位についての問答を載せる。
- 荀子には、子路が答えられなかった「大夫の喪礼」について子貢が問い直して正答を得た逸話、太廟の北堂の造作の意匠について問うた逸話を載せる。
- 説苑・呂氏春秋・韓非子には、子貢が政治・刑罰について孔子に問答した記事を多数載せる。特に「魯人が他国で同胞を贖った金を国庫から受け取らず辞退した」子貢の行為を、孔子は「善行の基準を高くしすぎて、以後誰も贖わなくなる」と批判した有名な逸話、殷の法で「灰を道に捨てた者の手を断つ」厳罰の合理性を孔子が説いた逸話を載せる。
- 韓詩外伝には、季孫氏の刑罰運用を「法に頼るのは暴政」と批判し、鄭の子産の徳治(罰を減らし、死しては国中が哭いた)を模範として説いた長い議論を載せる(新序には同種の話が臧孫氏の逸話として異伝で載る)。
- 家語・説苑には、子貢が管仲・晏子・鮑叔・子皮ら賢臣を論じた逸話、信陽の宰に赴任する際に孔子から「奪う・伐つ・暴・盗(不正な人事や政治)を戒める」訓戒を受けた逸話を載せる。
- 礼記には、子貢が音楽師・乙に「自分にふさわしい歌」を問い、性格に応じた雅楽・頌・風などの選び方と、歌の効用について長く教えを受けた対話を載せる。
- 新序・韓詩外伝には、清廉の士・鮑焦が子貢との問答の末に洛水のほとりで立ち枯れて死んだ逸話(過度に潔癖な節義への戒めとして評される)、荘子には、南方への旅の帰路に出会った圃を作る老人が、機械(はねつるべ)の利便を拒み「機心あれば純粋な心が保てない」と説いた「機心」の寓話、子貢がこれに恥じ入りつつも孔子から「渾沌氏の術(道家の無為の道)を体得した人物」と評された逸話などを載せる(列子には別人・端木叔=子貢の子孫の豪奢な逸話も付す)。